〈登壇ゲスト〉
  ★ポール・ソリアノ(監督)
  ☆ベラ・パディーリア(女優)

〈司会〉
  ★矢田部吉彦


司会:ソリアノ監督、そしてベラさん、本当にこの強烈な作品を東京国際映画祭にプレミアとして持ってきてくださいまして、ありがとうございます。とても興奮して感謝しております。
 まずは、監督とベラさんからひとことずつ、ご挨拶の言葉を頂戴できますでしょうか。

パディーリア:ヨシさん、ありがとうございます。
 (日本語で)こんばんわ。ありがとうございます。
 この映画を観てくださいまして、ありがとうございます。ここに来ることができて、本当に嬉しく思っております。ありがとうヨシ、ありがとう監督。

ソリアノ:あらためてヨシさん、本当にありがとうございます。また、映画祭の関係者の皆さんにもお礼を申し上げます。今回、大好きな日本にまた来ることができ、そして3年ぶりに映画祭にも参加することができ、本当に嬉しく思っています。(ポール・ソリアノ監督は2015年の東京国際映画祭で『キッド・クラフ~少年パッキャオ』が上映された時に来日している。)
 今回、ワールドプレミアをコンペティション部門でおこなうことができて、非常に嬉しく思っております。


司会:ちょっと私から基本的な質問をお伺いしたいのですが、まずポールさん。ポールさんはいままで色々なタイプの作品を作っていらっしゃいますけれども、今回は非常にゆっくりとしたペースの心理ドラマで、しかも脚本がラヴ・ディアス監督ということでも話題だと思うのですが、この映画のなりたちについて教えていただけますか。

ソリアノ:私は少し前にディアス監督の『痛ましき謎への子守唄』をプロデュースしたということもあって、それ以来、彼が師匠になって私が学ぶという関係をずっと続けています。ディアス作品のあのようなスタイル、雰囲気が私は非常に好きで、だからこそ彼の映画のプロデュースをしたのですが、トランセンデンタルな映画ということで言えば、日本ですと小津監督がそういう物語性に富んだ映画を作っていた方と思っています。映画作りを初めて13年になりますが、いま、徐々にそういったやり方、流儀に自分自身が入れるようになってきたと感じています。フィルムメーカーとしての自分自身のスタイルが、いま、本作のようなものとして確立しつつあると感じています。

司会:ありがとうございます。そしてベラさん、私、昨日レッドカーペットで初めてお会いして、あまりに映画と違って美しい実物のベラさんに感動いたしました。この作品、どのように出会われて出演するようになったのか、いきさつを教えていただけますか。

パディーリア:ありがとう、ヨシさん(笑)
 昨日レッドカーペットでヨシさんに会った時に「ぜんぜん映画と見た目が違うんですね」と言われたのを覚えています。本当にお褒めの言葉をありがとうございます。
 『マニャニータ』は、確かに身体的な特徴はあると思うのですが、役者にとっての私が感じたのはそれ以上のものでした。エディルベルタは、内面で非常に多くの悪霊と戦っています。それは、彼女自身、なかなか表に現せるものではないのですが、そこがこの映画のポイントです。
 ふだん私は、どちらかというと恋愛物など、いわゆる主流タイプの作品に出ています。こうした実験的な作品への出演をオファーされたのは初めてなのですが、それにイエスと答えて本当に良かったと思っています。
 エディルベルタは映画の中で色々な旅を経験していくわけですが、映画の中の彼女の歩みと、私が女優として歩んだ道筋は実は重なるところがあると思いました。この映画は、最初のシーンから最後のシーンまで順番通りに撮影していましたので、彼女の気持ちの動きを私自身も感じとることができました。ポール監督や『マニャニータ』のチームの皆さんの支え、スナイパーとしてライフルをどう構えるかというような特訓を受けるなどの準備をしたこともあり、非常に満足のいくデキになりました。


質問:深い映画だと思いました。ワールドプレミアを鑑賞できて光栄です。ありがとうございます。
 この映画は、常に音楽とともにあったと思うのですが、選曲は監督がされたと思います。選曲についてなのですが、幅広い…幅広いと言いますか、数ある選択肢の中からはめていったのか、それとも監督が1曲1曲に強いこだわりを持って決めていったのか、もしくはフィリピンの、なんというのだろう、有名どころといいますか、オーソドックな楽曲で埋めていったのかというのがひとつ目の質問で…

司会:もしかしたら、映画のために作ったのかもしれないですね。

ソリアノ:この物語でいかにして歌詞を通してストーリーを伝えたいと思っていたか、そのことをお伝えできることを非常に嬉しく思います。質問をありがとうございます。
 選曲については、かなり苦心をしました。実際に警察が歌っていた曲でもあったので、フレディ・アギラ(Freddie Aguilar)の「Magbago Ka」を参考にし、かなりその時代の音楽や、特に歌詞について研究をしました。その中でも特にジョーイ・アヤラ(Joey Ayala)の歌にこめられている強い核に心を打たれて使うことを決めました。また、オリジナルの音楽もあります。これはラヴ・ディアスが歌詞をつけてくれて、彼が実際に歌ってくれてもいます。ちょうど脚本でいろいろ話をしている時に、歌詞を作ってくれないかと言ったら、その場で応じてくれて、しかもその場で録音してくれたので、その時に録ったものを実際に映画でも使っています。私から彼にお願いしたのは、父が娘にどのような思いを抱いていたであろうか、それを音楽にしてほしいといったものでした。

司会:ありがとうございます。あと、ちょっと時間が遅いので、ひとり1問でもよろしいでしょうか。


質問:(タガログ語で挨拶をしてから、英語で質問)確かラヴさんが曲も作って歌っているのですよね、ということをお伺いしたかったのと、この映画はフィリピンで公開する予定はあるのでしょうか?

ソリアノ:正確に言うと、ラヴさんが書いた曲は1曲だけで、それは最後の彼女が涙を流しているシーンと、ベッドで横たわっているシーンで使われています。フィリピンの映画館では、12月4日の公開予定となっています。


質問:ありがとうございました。とても感動しました。僕もやはり音楽の使い方にいたく感動したのですけど、クライマックスの警察のコーラスには、あれが実際に行われたのだということにびっくりしました。東南アジアかミクロネシアだか、どちらだか覚えていないのですが、部族間同士の争いを歌合戦で解決する地域があるということを文化人類学の本で読んだことがあります。何日間も歌合戦をしているうちに憎しみがなくなっていくという対処法となっている地域がいまだにあるということです。ところで、実際に警察がコーラスをするというのは、もともとフィリピンにも風土的にそういうものがあるということなのでしょうか。

ソリアノ:フィリピン人はみな、音楽を愛しています。それは、文化の一部、アイデンティティの一部なのだと思います。みんな歌うことが大好きで、たとえ歌が下手な人でも歌うことが大好きなのです。音楽をとても大切なものだと思っています。
 皆さんもご存知と思いますが、フィリピンではいまいわゆる麻薬戦争が行われています。このダバオでも、警察官たちは上の責任者の命令、大統領の命令に従わないといけないわけですが、それでも暴力を使うことはどうしてもしたくないということで、署長がそれならば歌ってみてはどうかと発案したそうです。そこで、歌で、歌詞の力で人々の魂に訴えかけるという行為をしてみたところ、毎日ではないにしても、平和を願うその歌詞の力が結果をもたらし、じきに何千人もの人が自首をしたそうです。この歌うことを奨励していた警察の署長さんに話を伺った時に、「なんで歌うことにしたのですか?」と聞いたら、「薬を使ってハイになっている時ほど、音楽が気持ち良く聞こえるからねえ」なんていうことを、当たり前じゃないかというような口ぶりで話してくれました。実際、歌をうたって聴かせると、麻薬の売人や麻薬中毒者たちが、涙を流して自首をしたそうです。


質問:ラヴ・ディアス監督は、自作を撮る時に事前にちゃんとした脚本を用意せず、当日にその日の分の脚本を俳優に渡したりというようなことをされているそうですけど、今回はどのような形で脚本に参加されたのでしょうか。とても、事前に全部用意されたとは思えないのですが。(これは、僕の質問)

ソリアノ:(実に嬉しそうな表情で僕の方を指さし)まさにあなたの言う通りです!(笑)
 彼とは何度か顔を合わせて、本作のコンセプトやストーリーについて打ち合わせをしました。メールでのやりとりもしました。そして、何ヶ月もたって彼から送られてきた脚本は、たったの8ページでした。あとは君に任せると言って(笑)
 そこで、私は自分のビジョンに合わせて解釈を加えたりとか、場面を追加したり、あとは台詞を少しいじったりはしたのですが、基本的には8ページで来たその脚本がベースとなっています。

パディーリア:こんなに短い脚本は初めてでした(笑)

司会:ベラさんは、撮影しながら自分がどうなっていくのかを、日々知っていくという感じだったのでしょうか?

パディーリア:確かにとても短い脚本でしたので、その日なにを撮るのかは当日になってみないと分からないということもたくさんありました。でも、ポール監督の頭の中には映画の全体像がちゃんとあって、何を目指しているのかということは最初に教えてくれていましたので、方向性としては理解できていたと思います。
 あとは撮影中に、たとえば「ここはこのフレームの中で、ここまでしか動いてはいけない」というような非常に明確な指示をもらうこともありましたし、逆に「エディルベルタだったらどうするのか、ちょっと考えながら自分で演じてみて」と言われたこともありました。役者としては、演出的な指導と、私が自由にできる部分のバランスがとてもよく、たいそうありがたかったです。あとは、なんの指示も受けずに「ただずっと歩いていなさい」という風に言われることもあって、ものすごく体重が落ちました。でも、同時にビールをたくさん飲んで体重が増えたので、まあ結果としては変化なしというところでしょうか(笑)


司会:ありがとうございます。もう1問いけると思うんですけど、いかがでしょうか。もし、いらっしゃらなければ、最初のお客様の2問目にいきたいと思いますが、大丈夫ですか。それでは、最初のお客様の2問目をお願いします。

質問:2問目を失礼します。この映画は、時間の使い方がとても贅沢だと思います。で、なんていうんだろう、その贅沢な時間がもたらすものは数多くあると思うんですね。たとえば主人公の苦悩に対する感情移入をうながすとか、たとえばフィリピンの風景、生活感を知ることもできるし、主人公の生活感や人間性も知ることができ、また、深くこの映画について考える時間もある、という点ではとても有意義にこの時間、贅沢な時間が活用されていると思うのですが、たとえばタクシーを待つにしてもぜんぜん来なかったり、道を歩いていてもぜんぜん風景が変わらなかったり、そういった部分、まあ、私たち日本人が、というか興行映画とかで観る映画は時間をいかに短くするかというのがひとつの要素であると思うんですけども、そこを同時に考えた時に、この映画はもっと短くできて、物語の核心へもっと早い段階で進めて、大筋、趣旨は守り通せたのではないかなとも思うのですが、その点についてお聞かせいただきたいです。お願いします。
(これも、もう少し何を聞きたいのか、ちゃんと頭の中でまとめてから質問しましょうよという、典型的な例として、敢えて編集せずに発言をそのまま再録してみました。ひとことひとこと、ゆっくり考えながら発言しているので、聞いていてイライラさせられる質問でありました。)

ソリアノ:実は、長さがどのくらいになるのか、分かっていませんでした。長さが決まったのは、ポストプロダクションに入ってからでした。
 私は、とにかくこの主人公を中心に描きたいと思っていました。彼女は、本当に辛い体験を経て、なかなか許すことはできないという思いを抱いています。そういう思いというものは、やはりたちどころに溶けさるというわけにはいきません。彼女が求めている答えや解決策というものが、すぐに見つかるというわけもなく、やはりエディルベルタの気持ちを皆さんに伝えるためにも時間は必要だと思いました。
 彼女の傷が癒えるのに20年以上かかったわけで、もちろん映画そのものを20年に及ぶ作品にするわけにはいかないのですけれども、やはりそこはバランスを考えて、トランセンデンタル映画の手法である時間の使い方というのを自分なりにも学んで、このように作ってみました。
 この作品は主流の映画ではないと思います。迷走的なところを持っている作品なのかもしれません。いずれにしても、嬉しいお言葉をいただきまして、ありがとうございます。

司会:ありがとうございます。素晴らしいお話しをたくさんお伺いすることができました。本当に、質問もたくさんしていただいて、ありがとうございます。