先日、古い友人とzoomで話しました。
もちろんJWの友人です。
彼は非常に賢い男で(文字通り 高学歴で優秀)。
しかし昔からあまり気取らず、間違っていれば上司(長老)にも簡単に逆らう人です。
とてもまともな人です。
先ほども言いましたが、彼は頭の良い人で某有名大学で博士号とか取っちゃうくらいの頭脳です。
しつこくなりましたが、そんな彼でも「組織に信頼を置いています。」
信頼というか彼の場合は、「消去法」と言っていました。
「他がまともじゃないから一番マシなのを基準にする」と
無学の普通の人の私としては、何だかなぁ〜という感じです。
で、不思議に思うのは、特別頭が良くても「カルトの教理」を支持するというのは一体どういうことなのだろう???
と感じるのです。
それから先日ドキュメンタリーで「JWの家に生まれて」を見ました。
やっとここまで来たか!という思いと
やっぱりここまでやっても「信者にはイマイチ届いていないのか?」という思いがしました。
小松さんのご両親も実の息子の訴えでさえも届かないのか?
という思いに駆られました。
そうなんですよね。
実際に と凸盲信の信者って世間と逆で、いくら正論訴えても「サタンの攻撃」で終わってしまうんですよね。
それを本当に感じました。
ちょっと前後しちゃいますけど、
その優秀な彼と話していても彼が「ハルマゲドン後も残る協会の施設 ラマポとかオーストラリアの中東の町」とか
と言うのです。
だから私こう言いました。「神は大洪水の時にエデンの園さえ壊したのに人間の作ったコンクリートの建物を残すのはどうしてですか?」
そうしましたら彼は絶句したのです。
通常の論じ合いなら彼は負けるはずはありません。
なぜ?言い返せなかったのでしょうか?
それはこのカルト教団の教理が脆弱、というか弱すぎるし、的を射ていないからです。
しかし信者は、こうした攻撃でも「組織の考えに反する人は背教者でサタン」になってしまうのです。
だから世間で幾らこのカルト団体がおかしいです。子供虐待しています!
と訴えても
根本的に「このカルト教団の教理が脆弱で真理じゃない」ということを説明しないと
効果があまりないのではないか?と考えます。
それで思いました。
ブログの役割って大きいなって。
密かにAmebaブログ見ている現役の皆さんは、カルト教団の教理がいかに間違っているか という正論にたどり着くはずです。
私の友人の言っていた「消去法」って
例えば政治で言えば80代のお爺さんが言っていた「他の党じゃ無理だから心配ない」と言っていた
まさにアレです。
現政権の与党もまともじゃないし適正でもない、しかし他の党がもっと無能だから仕方なく。
まあ政治がまともじゃないと国民は苦しみますが、人間性や思いの安定を得る宗教が
そんな選択肢しかないなんて
それこそ価値の無いものなのではないでしょうか?
そんなふうに思てなりません。
信仰は個人的なものですし
神を崇拝するのにどうして「組織が必要なのか?」
聖書のどこに「組織に入れ」と書いてあるのでしょうか?
テレビで言っても伝わらない「JW教団の真理の脆弱さ」。
Amebaでは多くのブロガーさんがこれを訴えています。
現役の皆さま
どうぞご覧になってください。
宗教を選択するのに「消去法」って必要ですか?
それで選択して一体何になるのでしょうか?