イエス様はまことのぶどうの木。
ヨハネ15章
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」
**********
私はこの箇所を長年すごく誤解していていました。![]()
自分が実を結んでいない歩みをしているなら、神様からいつか取り除かれてしまうかもしれない。![]()
そんなふうに思っていました。
イエス様を信じているはずが、、なぜか不安。。。
クリスチャンとして実を結んでいない枝である自分はどうしたらもっと実を結ぶ枝に変われるのか![]()
自分の信仰や生き方に対して不安に思っていました。
実を結ぶとはどういうことか、ガラテヤ人への手紙5章には御霊の実について書かれているのですが、
自分の心の中を正直に見ると、愛、喜び、平安、寛容、などなど、すごく欠けてると思ったんです。
むしろ、痛みや心配とか不安とか否定的な考えとかの方が割合的に大きい感じがしていました。。
それで、イエス様から御霊の実を結ぶ者としてもらえるように祈ったりしました。
「私には人に対してイライラしたり、人をゆるせない心があります、私の心を変えてください。。」というように。
でもこの箇所の2節にあるように「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」
ここが、どうしてもひっかかっていました。なので、とても不安でした。
そこで、ある記事と出会い、とても目から鱗だったので、その内容をシェアーしてみたいと思います。
この「父が取り除かれる」と日本語で訳されているところが実は動詞がギリシャ語の airoということばだそうなんです。
それで、その言葉が別の聖書箇所で使われている時に「引き上げる」と訳されていることも多々あるそうなんです。
つまり、「取り除く」ではなく「実を結んでいない枝は父が引き上げてくださる」というニュアンス.![]()
枝が実を結んでいない時、神様はその枝がもっと太陽の光を浴びることができるように、引き上げてくださる。
光の神様ご自身のもとに引き寄せてくださる。そんなイメージです!!
でも、このような解釈をする聖書学者とか牧師は少ないらしいです。
なので、これを読んでくださった方も「うーん。それはどうかなぁ」と思われるかもしれません。
でも、聖書全体を通して、神様からのメッセージが、イエス様を通して神様が人間に与えてくださっている救いの約束。
私たちに対して無条件の愛が注がれていること、イエス様を通してすべての罪がゆるされること。などなどを、考えた時、
私はやっぱりHE WILL LIFET YOU UP!だと思うんです。
私は自分が自分で豊かな実を結んでいないなぁと思う時があっても、
神様ご自身がこんな私でも引き上げてくださる、もっと光のあたるように支えててくださる、と知った時、
心の中にすごく暖かいものが流れてくる感じがしました。![]()
もし詳しく知りたい方は以下のリンクから是非!

