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「祝嶺の会」 祝嶺の技と理念を継承する人のブログ

祝嶺制献の残した多くの未発表原稿や日記、そのほかメモや手紙などの遺品から、その考えや技の奥義を探ります。


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武道家への原点
「辞世の句と死生観」

「妄動何かせん生死にぞ 生死もこれまた一瞬の風理 生きて現世に託するも天 死して来世に帰するも天 我従容として南海に散るらむ」

祝嶺語録

19歳当時の春範(防府通信学校当時)

    
若干19歳の祝嶺正献(本名春範)は特殊潜航艇「蛟竜」で敵艦に体当たりし、日本のため、ひいては故郷沖縄のために自らの命を捧げる事を覚悟してこの「辞世の句」(上記)を詠んだ。
「蛟竜」とは水中に潜み、竜となって天に上る前の幼い竜の意味。転じて時運に恵まれず志を得ず滅びていく英雄、豪傑の意となった。この人間魚雷に誰が「蛟竜」と名付けたのか。死を覚悟した青年達をこれ以上の賛美の表現で死に導く爆発装置があっただろうか。しかしこの辞世の句を詠った直後、あっけなく戦争は終結した。

天に命運を託した春範であった。しかし春範であったが九死に一生を得た。その後春範は「天」の権威を「道」と言う言葉に置き換え自らの経験を生かし、その後の人生の指針とした。
春範は武道家の道を歩み、自らを祝嶺制献と名乗るが、生涯その死生観について明言する事はなかった。だが残された多くの原稿やメモからこれを推測する事は可能である。自分の生命、人生そして死が、宇宙や生命体、あるいは人類の歴史の流れの中でどのような位置にあり、どのような意味を持つのか。このことについての考えや理解、そして生きること全ての拠りどころとするのが「死生観」である。祝嶺は「死」そのものを、人間の営み全体との関係においてどう理解したのであろうか。
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祝嶺春栄(1900~1968)は教育者として、戦前戦後の沖縄で指導者的な立場にいた。沖縄中北部(現在の名護市周辺及び国頭郡)でいくつかの(尋常)小学校の校長として、県民の教育向上に生涯を捧げた。
1925年、祝嶺正献(春範)が生まれた当時は国頭郡の有銘(あるめ)尋常小学校校長として赴任していた。有銘尋常小学校では学校敷地内の住宅に家族とともに住んでいた。学校敷地内には当時からの井戸が残っていた。現在は封鎖され使用できないが、春範が生まれたときこの井戸の水で産湯をつかったとされている。


祝嶺語録
有銘尋常小学校五代校長 祝嶺春栄 

祝嶺語録
当時の有銘(尋常)小学校



祝嶺家の奥座敷に集まった近親者や近所の人々は、春栄の祈願どおり男児の出生したことをわがことの如く喜んでいた。
神棚に貼られた白紙には <命名 春範>と達筆で記されていた。
「先生、立派なお名前をつけられましたね。人の範たれ・・・・の願いとお見受けいたします。おめでとう存じます」
そう挨拶したのは、この村の佐事であり、有銘小学校の小使でもある九高安道であった。
「うむ、有難う。わしの後継として、春範の行末永く見守ってもらいたい」
「はい、どうお呼びしたら・・・・」
「範(のり)と呼んでくれ」
「範ちゃん・・・うーむ、いかにもいい呼び名でございます。流石に先生は学者で・・・」
九高の言葉は、些か世辞気味ではあったが、春栄にとって、決して不快なものではなかった。 九高の言う通り。春範と命名したことには、人の鑑たれ、大器たれという願望が秘められているのだ。
そもそも、祝嶺家の家系は今よりおよそ七百年の昔、健元年間摂政として任じられた沖縄の国主英祖王に始まるのである。この英祖王の子孫に、慶安元年より寛文八年まで十八年間国王として君臨した尚質王(しょうしつおう)があった。その尚質王に嫁いだのが池原按司(今帰仁大主の四男)を祖とする、後年比嘉家の祖となった春紀の次女真鍋樽(まなんだる)であった。
真鍋樽の子等は駱姓(らくうじ)を『春』と称した。この『春』は春紀の祖父に当たる古波津親雲上春殊(こばつべーちんしゅんしゅ)より称えたるものであり、さらに真鍋樽の子等は、比嘉、祝嶺、宮城、玉城、与那原、銘刈、森永、呉屋の姓の祖となり、いずれも『春』の駱姓を称えたのである。
とまれ、いま『春範』と命名された新生児は、沖縄国主の子孫であることは間違いない事実なのだった。


大野景範著「拳風夙夜(王統の血)」より抜粋



祝嶺語録
現在の有銘小学校

祝嶺語録
春範(正献)が産湯をつかった井戸

祝嶺語録
1964年東京を訪れた春栄と政子(母)
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「精神とは心と身体の間にあるものだ」

精神とは心が発案して身体が実践するもの。精神が自動的に身体に宿ることはなく、身体的訓練がなくては身につかない。精神は心と身体の間にあるものだから、常に揺れ動く。

日頃人間は頭で物事を考えているが、突如重大な危機に直面することもある。そのようなとき訓練された者は思考の位置が頭からスッと丹田へ降りてくる。精神とは極めて肉体的な意志である。従って身体を訓練することでこれを安定させることができる。

言葉数の多い者は精神の不安定さを隠すための場合が多い。政治家の信頼が失墜するのはその言葉に精神が感じられないからだ。政治家は言葉が命という。言葉に命を与えるなら、政治家こそ「多言は無用」ということになる。


<自転車に乗って>

祝嶺は50代も半ばの頃、山梨県の八ヶ岳山麓に別荘を構え、躰道の新技と法形創作に集中した時期があった。息子(修身)に車で自転車を運搬してくれと頼んだが、息子との都合が合わず、なかなか実行できなかった。

何を思い立ったのか、ある日祝嶺は東京練馬の自宅から自転車に乗って八ヶ岳の別荘まで向かった。途中、八王子と石和で一泊し一気に八ヶ岳まで駆け上った。所要日数三日。道はほとんど登り勾配だ。自転車は誰かが妻(和子)にプレゼントしたものであった。一般の主婦が使う買い物用の自転車であったから、もちろん変速ギアなどついていない。

当時関係者を驚かせたが、今では伝説となっている。その後、山梨県内の自動車教習所に通い55歳で運転免許証を取得した。

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「君の生きているこの瞬間は過去と未来の接点だ」

人類の過去の経験と積み重ねがあって、その頂点に君たちがいる。未来を語るとき、未来に夢を託すとき過去の歴史に多くの知恵が残されている。

おそらく歴史を知らない者には貧弱な未来しか思いつかないだろう。君が生きているこの瞬間は過去と未来の接点であり、君たちは多くの歴史を背負い、多くの未来を担うことになる。

「作法があるから人は美しく見える」

なんでも最初は形から入るのだ。形が内面を整え、それが作法となって人の姿を美しく見せる。武道では形を重視することで、その人間の内面を問うている。

自分の意志を人に伝える場合、言葉だけが道具ではない。道具を使うのに手順や技法があるように、作法とは意志を伝えるときの技法である。

武道における「礼」は戦う意志の表れでもある。かつて戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提であった。つまり日常における作法は自分自身を守るための鎧である。

日本の武士道や西洋の騎士道においても作法は重要であった。それはひとつの安全保障という意味があったからだ。不作法が戦いを引き起こす原因ともなるが、それは現代でも同じである。
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「祝嶺語録」の中からいくつか紹介します。

「殺すのは簡単だ、活かすことの方が百倍難しい」

祝嶺が武道を人々の役に立つものにしようと考えていました。自分のもつ殺傷能力をいかに人活能力に変えられるか自問自答の末に出た結論です。ここには武道家として真の指導者になるために、旧来型の武道家の枠を超えようとする苦悩がありました。

如何に弟子たちの能力を引き出すか。その能力を社会に還元させるためにどんな指導が必要なのか。弟子の数が増えるにつれ、常にそんなことを考えていたようです。

「最低だ。人間には禁じ手というものがある」

これは、2001の9.11「同時多発テロ」惨状を見て発した言葉。目的のためには手段を選ばないイスラム原理主義の一部テロ集団に対して怒りの気持ちを表したもの。この報を受けて即座に米国躰道協会の内田光信氏に電話し、関係者の安否を確認している。これは、内田氏に電話で語った言葉である。
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祝嶺の師匠として、岸本祖孝先生の他に幼年時代に師事した佐渡山安恒先生がおります。今回は佐渡山先生のことを紹介します。下の写真は83歳の佐渡山先生と久々の対面を果たした祝嶺制献。

祝嶺語録


佐渡山安恒は琉球王朝尚貞王(しょうていおう)の時代、宮廷で三司官として任ぜられた佐渡山按治の血統を受け継ぐ。祖先から受け継いだ山畑が三原という場所にあり、そこで砂糖黍を栽培して生計を立てていた。古流唐手の使い手として地元では知られていた。

当時校長をしていた祝嶺春栄は地元で指導的な立場にあった。佐渡山とは旧知の仲であり緊迫するアジア情勢などを憂慮し語り合ったという。地元では数少ない知識人でもあり、春栄とはしばしば泡盛を酌み交わしながら沖縄の将来を語り合った。

当時祝嶺春栄は虚弱な長男春範(当時5歳)の心身を鍛えるために、佐渡山に息子の訓練を一任した。春範に成長の早い仏桑花(ぶっそうげ・ハイビスカス)を植え、その上を飛び越させる訓練を施した。

そのことにより、庭の生垣ほどに成長した仏桑花を春範は難なく飛び越えるほどの跳躍力を身につけた。小学校高学年となった春範はその運動能力により、すでに近所の子供達のリーダー格となっていた。

幼少の頃はひ弱であった春範を心身ともに鍛え上げ、父春栄の期待を大きく担うほどの若者に成長させた。佐渡山自身の血統でもあるが、彼が春範に教授したのは唐手だけではなく、礼儀作法、言葉遣い、起ち居ぶるまい、正義感、長幼の節度、といった人間としての基本的な所作や精神の在り様も叩き込んでいた。

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岸本祖孝は、1862年(文久2年)、屋部(やぶ)の安和という部落の貧農の家に生れた。本土では徳川将軍家茂の頃で、時はまさに明治維新への動乱期であった。幼少の頃より野山を駆け巡り、小柄ながらもその行動は人並みはずれて敏捷であった。
 
祖孝が18歳(明治12年)のになった4月4日、沖縄はそれまで琉球藩として幕藩体制下にあったものを、明治政府は鍋島直彬を県令に任じ沖縄県とした。もともと琉球は小国ながらひとつの独立国という意識が強かった。


日本を始め清国、朝鮮、台湾、さらに東南アジアの諸国と貿易によって交流し、独自の経済圏を確立していた。清国と朝貢貿易を行っていたことも事実だが、そのことだけを取り上げると、琉球は清国の属国のように見える。従って琉球が沖縄県として成立するには当然清国側の抗議があった。


このような状況におかれた小さな島国の人々は、清国と日本の間にあって民心が揺れ動いた。沖縄は大国間にあってなんら主体性の発揮できない、その運命を自らの意志ではなく他国に委ねなくてはならないという運命にあった。そんななか、この小国の武力を持たなかったことの歴史を嘆く者達も少なくなかった。岸本祖孝もまたその一人であり、力に対する信奉には人一倍強いものがあった。


祝嶺の型研究会(Official Blog)

岸本祖孝の動きは首里系の古流と似ているとはいえ、そのほとんどは独自に編み出されたものであった。生涯師をもつことなく、実戦だけがすべてであった。子供の頃から喧嘩相手を見つけ挑戦する。わざと相手を怒らせて挑発する。その繰り返しだけが祖孝の腕を磨く方法であった。幾多に及ぶ勝負にあって無敗であった。


相手の動きをいち早く読み取り速攻につなげる能力は、他の空手家は誰も及ばなかった。これは幼少より身の回りに居る家畜、あるいは山中に潜む動物たちの行動をつぶさに観察することから磨き上げられた能力と言える。


大自然の中に生身の人間として生き、その環境に適応しようとする、あるいは生きるために野生の動物を相手にして戦う、そのような中で獲得された特殊な能力であった。相手の拳や足が、どの角度から、どのタイミングで飛来するかを本能的に察知し、相手がその一撃を出そうとする瞬間には、すでに祖孝の一撃は相手を射止めていた。


祖孝は生涯徒党を組むことをしなかった。祝嶺春範がその門を叩いたときはすでに78歳。弟子を持つこともほとんどなく、春範は祖孝のごく少ない弟子の最後の弟子となった。


祖孝は春範の幼少のころ出会ったことがあり、少なからず因縁のようなものを感じていた。さらに春範が自分を訪ねてくることは、かねてより予測したかのように自ら「運命的な出会い」と語っている。


その後19歳で春範は徴兵されるのだが、終戦により帰郷した際に祖孝の消息を訪ねている。祖孝は盲目の妻を背中に背負い、米軍の艦砲射撃をかわしながら沖縄の山中を逃げまわった。しかし終戦間もない沖縄の山中で祖孝は妻をかばうように、そして妻はその腕のなかで息絶えていたと言う。米軍による沖縄への艦砲射撃と占領が1945年であるから、享年83歳と推測される。

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