岸本祖孝は、1862年(文久2年)、屋部(やぶ)の安和という部落の貧農の家に生れた。本土では徳川将軍家茂の頃で、時はまさに明治維新への動乱期であった。幼少の頃より野山を駆け巡り、小柄ながらもその行動は人並みはずれて敏捷であった。
祖孝が18歳(明治12年)のになった4月4日、沖縄はそれまで琉球藩として幕藩体制下にあったものを、明治政府は鍋島直彬を県令に任じ沖縄県とした。もともと琉球は小国ながらひとつの独立国という意識が強かった。
日本を始め清国、朝鮮、台湾、さらに東南アジアの諸国と貿易によって交流し、独自の経済圏を確立していた。清国と朝貢貿易を行っていたことも事実だが、そのことだけを取り上げると、琉球は清国の属国のように見える。従って琉球が沖縄県として成立するには当然清国側の抗議があった。
このような状況におかれた小さな島国の人々は、清国と日本の間にあって民心が揺れ動いた。沖縄は大国間にあってなんら主体性の発揮できない、その運命を自らの意志ではなく他国に委ねなくてはならないという運命にあった。そんななか、この小国の武力を持たなかったことの歴史を嘆く者達も少なくなかった。岸本祖孝もまたその一人であり、力に対する信奉には人一倍強いものがあった。
岸本祖孝の動きは首里系の古流と似ているとはいえ、そのほとんどは独自に編み出されたものであった。生涯師をもつことなく、実戦だけがすべてであった。子供の頃から喧嘩相手を見つけ挑戦する。わざと相手を怒らせて挑発する。その繰り返しだけが祖孝の腕を磨く方法であった。幾多に及ぶ勝負にあって無敗であった。
相手の動きをいち早く読み取り速攻につなげる能力は、他の空手家は誰も及ばなかった。これは幼少より身の回りに居る家畜、あるいは山中に潜む動物たちの行動をつぶさに観察することから磨き上げられた能力と言える。
大自然の中に生身の人間として生き、その環境に適応しようとする、あるいは生きるために野生の動物を相手にして戦う、そのような中で獲得された特殊な能力であった。相手の拳や足が、どの角度から、どのタイミングで飛来するかを本能的に察知し、相手がその一撃を出そうとする瞬間には、すでに祖孝の一撃は相手を射止めていた。
祖孝は生涯徒党を組むことをしなかった。祝嶺春範がその門を叩いたときはすでに78歳。弟子を持つこともほとんどなく、春範は祖孝のごく少ない弟子の最後の弟子となった。
祖孝は春範の幼少のころ出会ったことがあり、少なからず因縁のようなものを感じていた。さらに春範が自分を訪ねてくることは、かねてより予測したかのように自ら「運命的な出会い」と語っている。
その後19歳で春範は徴兵されるのだが、終戦により帰郷した際に祖孝の消息を訪ねている。祖孝は盲目の妻を背中に背負い、米軍の艦砲射撃をかわしながら沖縄の山中を逃げまわった。しかし終戦間もない沖縄の山中で祖孝は妻をかばうように、そして妻はその腕のなかで息絶えていたと言う。米軍による沖縄への艦砲射撃と占領が1945年であるから、享年83歳と推測される。