ぺちゃくちゃとお喋りしながら難波から近鉄線に乗り、

30分ほどで生駒駅に着いた。


生駒駅を降り、リーダー格の西田が先頭に

閑静な山道を徒歩で10分ほど下ると不自然なくらい

大きな駐車場が道沿いに姿を現した。


「ここだ・・。」

西田の呟きにも取れる声に息を呑む一同。



その駐車場の奥へ進むと、行く手を拒むかのような

高いフェンスが姿をみせる。


フェンスの上は乗り越えられないように

有刺鉄線が張り巡らされていた。



そしてそのフェンスの向こう側には・・・

旧生駒トンネルは、ひっそりと佇んでいるのだ。





関西で有名な心霊スポットとなった旧生駒トンネル。




聴いた話によると、この生駒山はとても地盤の悪い山で、


何よりも昔、この山は霊山だった。
戦後、奈良~大阪間を繋ぐ道として、生駒トンネルの開通が計画され
そのトンネル工事に朝鮮人労働者が沢山雇われる事となった。



元々、地盤の緩い山であったこともあり、その現場で
沢山の労働者が生き埋めになったと噂されていた。



今になって、調べたところ全て事実であったことがわかった。

1913年(大正2年)1月26日に発生した落盤事故では
152名が生き埋めとなり、20名の犠牲者が出た。

なお、工事には朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も従事しており、
この事故でも犠牲となった者がいた。

しかし、国はトンネルを開通させる事に躍起になり、
沢山の犠牲者を出しながらも旧生駒トンネルは完成した。


だが、トンネルが開通して間もなく、よからぬ噂が立ち始めた。


操車場は大阪からトンネルを抜けてすぐ山間の場所にあるのだが

終電後、車庫に入れるためにトンネルに入った車掌が精神を病んで

その場で自殺したとか・・


終電後の回送電車なのにトンネル内に入った途端

沢山の工場服を着た男たちが車内に乗っていたのを

別の運転手が目撃したとか・・


車庫入れした電車の窓ガラスに大量の手跡がついていたとか・・


その手の噂は瞬く間に全国へと広がり、

実際に沢山の一般客がトンネル内に入った途端に

怪奇な現象に襲われたと言う話も後を絶たない状態が続いた。


そうこうしているうちに大惨事が起こる。

1946年(昭和21年)4月16日にトンネル内で発生した車両火災では
28名が死亡し75名が負傷

翌1947年(昭和22年)に再び発生したトンネル火災では乗客28人が死亡
58名が負傷。

さらに1948年(昭和23年)3月31日には急行列車がトンネル内を走行中に
空気ブレーキ(直通ブレーキ)が破損、大阪平野に向かう下り勾配を暴走し、
河内花園駅で先行の普通列車に追突、49名が死亡、282名が負傷する大惨事が発生。



この事故から遂に新聞やマスコミも霊による呪いではないか?

と騒ぎ出し、国がトンネル封鎖に踏み切る事を余儀なくされた

という忌まわしい過去があったのだ。



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