僕のルーツを辿る物語はまだまだ続きます。


僕は聖地グラストンベリーの歴史を辿るうちに

「聖杯伝説」から「テンプル騎士団」へと辿り着きました。
$タロット占い師・クロ戌ブログ


ゴルゴダの丘で十字架に磔となったキリストの死を確認するため、
わき腹を刺したロンギヌスの槍から滴り落ちた血を受けた
「聖杯」をキリストの叔父であるヨセフが、聖地グラストンベリーの
聖なる泉「チャリスウェル」に埋めたという伝説。


聖杯は何処から来たのか?

アーサー王の伝説では聖杯は、円卓の騎士ランスロットの息子
「ガラハット」が聖杯城で見つけたとされ、ガラハッドは聖杯を奉じて
聖地に至り、そこで天に召されたとされています。

キリスト教的背景では、イエスが最後の晩餐のとき用いられた杯、
または十字架上のイエスの血を受けた「聖遺物」のひとつとされています。


イエスが十二歳でエルサレムの神殿で学者たちと議論し、三十歳になり
宣教を始めるまでの人生について、聖書ではまったく触れられてません。

イギリス最古のキリスト教寺院がグラストンベリーにある事も含め、
イエスの叔父であるヨセフが、チャリスウェルに聖杯を埋めたという
伝説もなかなか信憑性を感じるものである。



話が少し逸れてしまったが「テンプル騎士団」の話に戻そう。


中世、西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が
聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に
組織した遠征軍があった。

それが世に言う「十字軍」である。

1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は聖地エルサレムに在るとされる
キリストの「聖遺物」の奪還に尽力を注いでいた。

しかし略奪を良しとしない立場から、ローマ教皇は、大罪を犯した
キリスト教徒に対して、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、
参加者には免償(罪の償いの免除)を与えると宣言したのだ。

この呼びかけに応えた荒くれ者の教徒たちは、イスラム教徒支配下の都市を
次々と攻略し、虐殺、レイプ、略奪の限りを尽くしながら、エルサレムを目指した。

イスラム教徒の諸領主は、十字軍の行動にまとまりがなく、行為も残虐な
強盗・レイプ・殺人の繰り返しという野蛮さから、この集団が宗教的背景を持った
侵略者だと気付かず、野蛮な西欧の強盗団が強大になったものだと考えていた。

一説によるとこのとき十字軍は、イスラム教圏で
老若男女問わず一方的に7万人以上も虐殺をしたともいわれる。


平和に暮らしていたイスラム教徒の諸領主はこの殺人集団に対して無力であった。
十字軍の残虐非道ぶりから十字軍の名を聞くだけで震え上がり敗走するか、
戦わずして十字軍を通し、1099年、十字軍は遂にエルサレムの征服に成功したのだ。



後にキリスト教、最大の汚点と言われたこの大虐殺と異端尋問について
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は2000年3月12日、

「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。
これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」

として謝罪した。





テンプル騎士団は1118年、ソロモン寺院の貧しき騎士修道院で、
修道士たちによって創立され
、エルサレムのソロモン王によって建てられた
寺院にちなんでテンプル騎士団と呼ばれた。


正式名称は「エルサレムのソロモン神殿にあるキリストの貧しき騎士修道会」


テンプル騎士団の主な活動は、表向きはエルサレムを結ぶ道をゆく巡礼者の保護で
あったとされているが、真の狙いはエルサレム奪還後も見つける事のできない
「聖遺物」の探索であったと言われている。

それを裏付けるようにテンプル騎士団の持つ盾は大きな赤い十字架
<これが後に一般的な十字軍のイメージと結びつく誤解を生んだ>
その元となったのは聖杯伝説の英雄「ガラハッド卿」のものであった。

他にも数多くの騎士団が「聖杯探し」をしていたが、公式ではないが
エルサレム神殿内でテンプル騎士団が「聖杯」を発見したとされている。

それを裏付ける事柄として、テンプル騎士団だけが早々にローマに帰還し、
当時のローマ教皇から無限の権力を与えられたことからも推測が容易い。

「聖杯を得るものは世界を統べる力を持つ」

その伝説を裏付けるように、聖杯発見から200年余り・・

テンプル騎士団は現代における銀行の基盤を作り、貿易にも尽力を注ぎ、
一国の資産ほどの莫大な富を得た。

テンプル騎士団は、13世紀の初期には、ヨーロッパ最大の
国際金融銀行 兼 貿易商社に成長したのだ。


当時のテンプル騎士団から莫大な借金をしていたフランス国王フィリップ四世は
彼らの存在を非常に煙たがった。

彼は自分の息が掛かった当時のローマ教皇クレメンス5世に働きかけ、
テンプル騎士団を悪魔崇拝の組織として弾圧する事に成功する。

その際、テンプル騎士団の祭壇にあったものが
$タロット占い師・クロ戌ブログ
後のバフォメットだと言われている。

しかしよく考えてほしい・・

バフォメットは本当にいわゆる悪魔だったのだろうか?

ソロモン寺院の貧しき騎士修道士たちによって創立されたのが
テンプル騎士団なのだ。

伝説によればソロモンはその強大な魔術(もしくは神より授かりし指輪)を駆使して
72人の悪魔たちを使役し、エルサレム神殿を建立したという名声を得たといわれている。

その悪魔の中には元々は他の宗教・神話の神であるものもいるという。

分かりやすく言うならば仏教で言うところの閻魔大王は悪魔であろうか?

キリスト教はイエスを唯一の神とする一神教であり、
歴史的背景でも多神教を邪教とする歴史があった・・


テンプル騎士団はドルイドの集まりだったのではないだろうか?

事実、テンプル騎士団には歴代総長を始め、グノーシス派やカタリ派の
人間が数多く居たことが分かっている。

しかしこの話は長くなるのでいずれ語ろう。



1307年10月13日の金曜日・・

フィリップ4世はテンプル騎士団最後の総長ジャック・ド・モレーを含む
フランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕。

拷問による異端審問を行った後、教皇クレメンス5世に働きかけ、
テンプル騎士団を解散させ、彼らの莫大な資産をすべて没収した。

1314年、ジャック・ド・モレーら騎士団の最高幹部たちは
異端者として、シテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。


火刑の際、ジャック・ド・モレーはフィリップ4世と教皇クレメンス5世に

「俺とともにローマ教皇もフランス王も地獄に連れていってやる!」と呪った。

$タロット占い師・クロ戌ブログ
この呪いの言葉を聞いて、教皇クレメンス5世は青ざめて卒倒。
そして翌月の4月に急死した。

フランス王フィリップ4世もその年の11月に急死したのである。

世間ではジャック・ド・モレーの呪いによるものだと囁かれた。


テンプル騎士団の解体は、フランスなど各地に広大な所領を持つ
汎ヨーロッパ的な騎士団の存在が、中央集権を目指す王権の邪魔だったほか、
騎士団の資産とその金融システムの獲得が目的だったとも言われる。

しかし教皇クレメンス5世の目的はそれだけではなかった。

テンプル騎士団が隠し持っていたとされる「聖杯の奪還」こそが
彼の最重要の目的だったと言われている。

しかし彼らの必死の捜索も空しく、テンプル騎士団の基地から
聖杯を見つけ出す事はできなかった。


また、ジャック・ド・モレーが処刑される前夜、
彼は腹心の騎士ラルメニウスを後継騎士団長に指名し、

「今後は地下に潜伏し、秘密結社としてフランス王国打倒の非合法破壊活動に専念せよ」
と命じていたとも言われている。

この事から、テンプル騎士団の残党が、後に誕生する「フリーメイソン」と連携して
積極的にフランス革命を推進させたとの憶測が生み出されている。

ナポレオン皇帝もまたフリーメイソンであり、彼はテンプル騎士団の名誉回復のための
「テンプル騎士団最後の団長ジャック・ド・モレーの火刑500年祭」を行っている。




ジャック・ド・モレーと騎士団の最高幹部たちは異端者として火刑になったが
テンプル騎士団の生き残りはフランスからの逃亡を図る。

その逃亡場所はスコットランドだった。

スコットランド地方はテンプル騎士団と強い繋がりがある土地だった。

その理由はテンプル騎士団の創始者であるユーグ・ド・パイヤンの叔父、
ヘンリ・セント=クレア男爵がスコットランドに住んでいた事が理由にある。

そして彼は後にサン・クレア家のカテリーヌと結婚している。


事実、聖地の外に最初にできたテンプル騎士団支部は、
現在テンプルとして知られるエジンバラの南の、サン・クレア家の領地に置かれている。



逃亡の際、せめて総長の遺骨を持っていこうと、テンプル騎士団の生き残りは
ジャック・ド・モレーの墓を掘り起こす。

棺の中の遺骨は頭蓋骨と2本の骨がクロスした状態で埋まっていたという。

これを見た騎士団たちは、偉大なジャック・ド・モレーを称え
「人は頭蓋骨と2本の骨さえあれば復活できる」
という意味を込めて、ジョリー・ロジャーと呼ばれる海賊旗を作ったのだ。

$タロット占い師・クロ戌ブログ
これがのちの海賊の発祥となったと言われている。


彼らは修道士から海賊となり、地中海を渡り、スコットランドに逃亡する。

莫大な資金から地中海の制海権を独占し、独自の船舶を保有していた
彼らにとって、フランス逃亡はそれほど難しいものではなかったことだろう。


そして彼らはスコットランドに降り立ち、石工職人として身を隠しながら
現代もキリストの「聖杯」を守り続けているといわれている。



さてここでようやく僕の話を戻したい。


2009年に僕は実力の高い霊能者で、僕が師匠と仰ぐ方に
前世療法を受けた。

その中での話は前世体験に記しています。



そう・・僕は前世、修道士だったのだ。


しかし修道士と呼ぶには余りにも身なりが汚く、
髭はぼうぼう、髪はぼさぼさ、そしてとても体格のいい男だった。

海沿いのケルト文化が色濃い石造りで出来た質素な修道院で
名前を捨て、独り寂しく、人目を避けるかのように生きた男だった。


テンプル騎士団には「清貧」「貞節」「服従」の3つの基本修道院の誓いがあった。

「貞節」
騎士団員は例え母や姉妹であっても女性にキスしたり、触れたりしてはならなかった。
どんな女性との会話も禁止されたという。

テンプル騎士団は羊皮で作られたズボンを履き、決して脱ぐことはなかった。
(この規則はテンプル騎士団が決して風呂に入らないよう命令されていたので
ズボンを脱がない命令は、性的活動を禁止するためだったと思われる。)


「服従」
全てのテンプル騎士団員は上位の団員に対し、即刻服従が要求された。
騎士団員にはプライバシーは存在しない。
テンプル騎士団は戦場で、3対1以下にならなければ、またはその場合でも
退却の命令がなければ、敵前逃亡は許されなかった。
入会した者は、戦場で死ぬことを期待され、そして実際、多くの者がそうなった。

「清貧」
テンプル騎士団は滅多に風呂に入らず、髭はもじゃもじゃで、
汗とホコリ、馬具と熱で汚れている。


僕の前世で見た男はまさに、この「清貧」にぴったりな男だった。

修道士にしては余りに体格がよく、無骨、まるで野蛮人のようだった。

スコットランドはケルト文明が色濃く残る地である。

彼は嫁も取ることが出来ず、人目を避けるように生きた。

忠誠心を強く持ち、神の御心のままにと死んでいった。


どういう経緯かは分からないがどうやら前世の僕は

当時、テンプル騎士団に所属しており、海賊としてスコットランドに渡ったが
石工職人(フリーメイソン)として身を隠すのではなく、海沿いの小さな修道院で
人目を避けるように死んでいった修道士だったのだと推測される。


なぜアーサー王伝説や忠義を重んじる騎士道精神にこれほどまでに惹かれたのか。

なぜこれほどイギリスと言う国に縁のある人生を送っているのか。

なぜ幼少期から海賊や中世、悪魔的なデザインに惹かれ、
それを自分の生活のメインとした商売をしているのか。

なぜ多神教、そして自然という万物の神を信仰しているのか。


$タロット占い師・クロ戌ブログ
※テンプル騎士団の旗は赤と黒と白。
僕を昔から知ってる人は分かると思いますが僕のスタイルは
この三色以外の色を取り入れることが殆どありません。
そこにも不思議な縁を感じます。




テンプル騎士団が隠した「聖杯」・・

そして聖杯伝説の眠るグラストンベリーという土地・・・

古来よりスピリチュアルなドルイドの聖地であること・・・

そしてグラストンベリーに点在する史跡を地図上で繋ぐと犬の形になり

その尻尾部分にはフリーメイソンの建物があるという事実。




そして最後に・・


僕が何故占い師をしているのか?



タロットの起源はハッキリとは分かっていませんが
今の現代タロットの基盤を作ったのは
「黄金の夜明け団」だといわれています。

そして黄金の夜明け団の創始者もまた
フリーメイソンだったのです。


様ざまな符合点がぐるぐると僕の頭を駆け巡りました。

大きな何か・・運命の流れを感じずには居られない。

それほどの衝撃でした。


事実、僕は今から数年前、イギリスに住む、
あるデザイナーと日本で出会いました。

その人の絵を一目見て強く惹かれ、
人生初の公開オークションで見事、その絵を競り落とし、
手に入れたのです。

後日、デザイナーが僕のもとに尋ねてきました。

僕は驚きましたが彼はこういいました。

「あの絵は世界に一つしかない。だから君の顔を見て、
そして写真に収めて帰りたいんだ。」

彼とはそれから仲良くなりました。


先日、自分のルーツを探し始めてから
何気なくデザイナーから購入した絵に目を留めて、僕は愕然としました。

$タロット占い師・クロ戌ブログ
そう・・彼もまたフリーメイソンだったのです。

世間でフリーメイソンの陰謀説がどうとか言われていますが
僕にはそれはどうでもいい話です。

テンプル騎士団=フリーメイソン という仮説が正しいのかどうかも
僕にとってはどうでもいい。

ただその時、僕は、僕のルーツに深く関わりのある何かなのだと強く感じたのです。




そしていよいよ・・前置きがとても長くなりましたが

僕のグラストンベリーの奇跡の旅について話を始めましょう。