そんな事があってもなお、

両親が家に帰ってくる事はなかった。


今までよりも少し、薬中の男が

食料を持ってくる機会が増えた程度だ。


姉は中学にあがると、

家に帰って来ることが少なくなった。


彼女は薬中の男が持ってきた食料のほかに

友達の家から食材を貰ってきて、

僕に大根やジャガイモなどの野菜を味噌で

煮込んだ料理を作り置きしていく事が増えた。


年頃の姉は、この世界の広さを知り

未来の可能性に目を向け始めたのだ。



「少しずつ、大事に食べなさいね」という

姉の言い付けを守り、僕は家で独り、

姉の作った料理を少しずつ大事に食べた。


しかし幼い僕は、姉が作ってくれた料理が

日に日に腐っていく事に気付かず、

また、味が悪いと感じたとしても

空腹感には勝てず、その料理を食べ続け、

食中毒になり、独り、台所の床に蹲(うずくま)り、

激しい腹痛に悶え苦しみ、そのまま意識を失くし、

朝を迎えた事もあった。


その時のトラウマで今の僕は

とても賞味期限にうるさい(笑)

一日でも過ぎたら怖いw



冬はとにかく寒さが堪えた。

当時、住んでいたのは、古い木造住宅の

長屋のような家で、そこらじゅうから

隙間風が入ってきた。


姉が居た時は地主の庭から時折、

灯油を盗んできてくれて

寒さをしのいだ。


ある夜、灯油を盗みにいった姉が

いつものように灯油を抱きかかえ、

走ろうとしたら、ガシャンと大きな音がして

彼女はつんのめった。


灯油に大きな鎖が巻きつけられていたのだ。



「この灯油泥棒がっ!!警察に突き出してやるっ!!」


張り込んでいたらしい地主が

玄関から大きな怒鳴り声を上げた。


姉は大慌てでその場から逃げ出し、

ぬかるんだ田んぼに滑り込むと

体を伏せ、凄い剣幕で道路を走っていく

地主をやり過ごした。



今でも、その時の話を

笑いながら僕たちは話すことがある。



ヤクザの息子というレッテルは、

当然ながら虐めの原因となった。


滅多に家に居る事のない父を名乗る男は

何故か子供の行事には進んで参加する事を好んだ。


暴力団の構成員をぞろぞろと引き連れて

運動会で騒ぎ立てる男。


自己顕示欲の強い男は自分が

立派に父親業もしているんだという事を

構成員たちにアピールしたかったのだろう。


小学校の低学年で既に自然な愛想笑いを

身につけた僕は彼らの前では決して笑顔を

崩すことはなかったが、明らかに誰の目にも

ヤクザだと判る者たちへの世間の目はとても冷たく、

僕は他の生徒たちから陰ながら

「社会の害虫の子供」と罵(ののし)られ、

「ヤクザの息子」「人殺しの子」と

机に書かれた事も少なくはなかった。


そして先生たちは僕を

まるで腫れ物のように扱った。



昔から父親を名乗るこの男は、

僕を息子としてではなく

構成員と同じように扱っていた。


むしろ構成員よりも先に気付き、

男のために動かなければ殴り倒された。


細かいことをあげるとキリがないが、

7歳の頃には既に男がタバコを手に取ったら

すぐに火を点け、灰皿を素早く男の側に添える。


男が出かける仕草を示した時は

すぐに玄関に行き、靴を揃え、靴べらを手に

男が出てくるのをじっと待つ。


勿論、車のドア、家の扉、全て男よりも

先に開け、その場を男が通り過ぎるのを

待つのが当たり前の生活であった。


ほかにも数え上げるときりが無いが、

男の要求を満足に満たせなかった場合は

酷く怒鳴りつけられ、殴られた。



「お前ら以上の気配りが出来るんがワシの子や。」

男はそう構成員に自慢げに話し、満足げに微笑む。


どうだ?俺のペットは?

よく躾けられているだろう?


そう言いたげな男の顔を見る度に、

僕は嫌悪感で吐きそうになるのを

いつも必死に抑えていた。


犬一匹、まともに育てられなかった男が・・

僕自身がいつゴウの二の舞に

なるやも知れないという事を

僕は子供ながらに痛いほど理解していた。


つづく
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