男はたいして家に居る訳でもないのに

突然、大きな犬を飼い始めた。


子供たちは自分に恐怖の目しか向けていない。


犬を飼ったのはその事実から

目を背ける為だったのだろうか・・。


今となっては知る由もないが

男は血統書つきの秋田犬を飼った。

名前はゴウ。

男がいつも来客が来る度に

自慢げに犬の話をしていたのが印象的だ。



主人に傅(かしず)く犬の従順さが

男の支配欲を満足させていたのだろう。


当然のように息子である僕の事より

犬のゴウを何よりも大事にしていた。



小さな庭に畳み三畳分はあるであろう

大きな犬小屋を建て、ゴウと共に犬小屋で

寝る事もあったほどの激愛ぶりだ。


僕も優しい目をしたゴウは大好きだったが

事あるごとに男に犬のゴウと比較され、

「無能でクズなお前こそ、この残飯を食え」と

犬用の残飯を夕飯に出されたりする日々には

心からうんざりとした。


でも僕は辛い事があると犬小屋にいって

自分よりも大きな犬を抱きしめ、

ゴウに涙を舐めてもらった。


ゴウは僕にとっても

唯一の親友のようにも思えた。


しかし、男のサディストさは

常軌を逸したものであった。


幼い僕を数時間にも渡って

木刀で殴り、いたぶる。

時には僕の頭をわし掴み、

熱湯の風呂に体を沈めた。


熱湯に頭まで浸けられ、苦しさのあまり

そのまま意識を失ったこともあった。


時と場所を選ばず、大声で僕の名を呼び、

難癖をつけては、それが大衆の面前であろうと、

僕の髪をわし掴みながら引き摺りまわした。


時には何度も何度も・・

僕の顔を足で踏みつけることもあった。



ガラス製の大きな灰皿で頭を割られ、

鮮血が部屋中に飛び散った。


タバコの火を体に、顔に押し付けられた。


男はまるで拷問を楽しむかのように

陰湿に・・何度も何度も僕をいびり続けた。



殴られ続ける最中、僕は、

その苦痛を和らげるために

もう一人の人格を形成していた。


木刀で殴られながら僕は

もう一人の僕と話をしていた。


真っ暗な闇の中で二人で居ると

あっと言う間に時間が過ぎた。



ある日、男は木刀で痛めつけている

僕の顔から笑みがこぼれているのに気付く。


さすがに男も空恐ろしくなったのか

「こいつ・・殴られて笑っとる!?
ほんま気色悪い餓鬼やわ!!」

と言葉を吐き捨てると、木刀を床に投げ、

何処かに去っていった。



僕はもう一人の自分と

「やった!あいつ殴るのやめた!!」と

安堵し、今日という日にまだ命がある事に涙した。


この時くらいからだろうか・・

僕は目に見えないモノを視るようになる。


友達も居なかった僕には別の世界の自分が

唯一の「人の形をした」友達で、救いでもあった。



しかしそんな劣悪な環境下で僕の心は

どんどん・・どんどん・・壊れ始める。



虫の手足を引きちぎって殺したり、

蜘蛛の巣に虫を引っ掛けて

殺される姿を見るのに高揚感を覚えた。



僕が幼少期に描いた絵はキャンバスを

真っ黒に塗り潰したものばかりだった。


時には無数の蛇と首の切れた人間を

キャンパスに描いたこともあった。



人形の首や手を引き千切ったり、

火で炙ったりという拷問を楽しんだ。


内にこもる性格は、男との歳月を

重ねるごとに酷くなっていった。


友達を作ることも、

他の子供たちと話をする事さえ出来ず、

学校の小さな机に沢山の絵を描いては

自分の妄想の世界に浸る日々を送った。


それでも僕は男に殴られない

その小さな箱庭が数少ない安息の場所だった。



普通の人たちの日常とは

かけ離れた世界に僕は居たのだ。


日常に当たり前にある

血飛沫、怒声、悲鳴、時に銃声・・・

そんな生活環境の中で、

母もいつからか、覚せい剤に逃げる。


家にあまり居付かない

ヤクザ男の後妻という立場・・

母が情緒不安定のあまり、

薬物に走るもの当然といえば当然だった。


そして母は身勝手で

あまり帰らぬ夫に対する寂しさを

紛らわすかのように、いつからか

昼夜を問わず、博打に熱を入れるようになった。


男は娘である姉を不器用ながらも

激愛していたが、僕の安らぎは

母と過ごす僅かな時間だけだった。



独りの夜が怖く、

母にまた捨てられるのが怖くて・・


何処だか判らない土地へと出掛ける母に

必死に着いて行きたいと懇願した。


母親が博打を打つあいだ、

雨の日も、雪の日も・・・

何時間も・・・何時間も・・・

空が明るく白むまで、

外でただ独り、待ち続けた。


でも僕はそれでも、

日常の凄惨な日々から抜け出せる

その時間が決して嫌いではなかった。



外で待つ僕に駆け寄る母の笑顔が

何よりも僕の心を満たした。


時に虚ろな目で何もない空間を

ただ見つめる母であったが

どんな母親であっても母が

僕の生きる意味の全てだった。


僕はブツブツと何かを呟く母のひざに

顔をうずめては安堵感を得ていた。


つづきは明日、午前7時から
読者登録してね