僕たちが「お母さん」と呼ぶ人たちは

孤児院で生活する子供たち全ての母親で、

一人の子供を特別扱いする事はない。


贈り物を祖母から手に入れても

次の日には他の子の物になる。


それが当たり前の生活だった僕は

プレゼントの意味さえも

よく理解していない子供だった。


欲しいものは奪うしかない・・



少し話が遡るが

思春期が過ぎた頃だっただろうか・・

祖母にボロボロで色褪せた写真を

見せて貰ったことがある。


それは僕たちが孤児院で暮らしていた時の

写真で孤児院の玄関前で姉と二人、

肩を並べて写っている写真だった。


その写真のなかに居る僕は、

とても子供とは思えない表情をしていた。


目はきつく釣りあがり、

瞳の奥は深く濁っていた。


幼い子供とは思えない・・

冷たい形相の自分の姿に、

僕自身、背筋が寒くなったのを覚えている。


そんな貧しい環境下で長い歳月が過ぎた

ある日差しの暖かな春の日・・・

4歳になっていた僕の目の前に

腰ほどまである長い黒髪を一つに

束ねた中年女性が姿を現した。


孤児院内の砂場でひとり、砂遊びをしていた

僕に、女性は若葉の生い茂る腰ほどの高さの

柵の向こうから少し腰をかがめながら、

目に涙を溜めた笑顔で話しかけた。

「お母さんやよ・・一緒に帰ろうね。」と。



僕にとって「母」とは、孤児院に居る

先生の事という認識があり、

柵の外に立つ見知らぬ女性にさほど

警戒する事もなく、少しばかりの好奇心と

母の手にある箱入りキャラメルに惹かれ、

「うん」と頷いた。


母がなんの手続きもせずに僕を

連れ去ってしまった事で

孤児院内は一時、誘拐事件だと

大騒ぎになったそうだ。


僕はそのとき、母とファミリーレストランで

これまで見たことも、食べた事もない

ご馳走に心を奪われていた。



後日、母は再び、姉を引き取りに

孤児院に訪れ、正式な手続きを済ませた後、

僕たちは晴れて小さなアパートで

家族3人、暮らす事となった。



それからの数ヶ月・・質素ではあるが

幸せな時間がゆっくりと流れた。


僕は母親と言うものを

徐々に理解し、母に甘えた。



5歳上の姉は当時9歳・・


何も判らずに施設で育った僕とは違い、

親に捨てられたという精神的なショックが

強かったためか、彼女は感情をまるで

表に出せない子供になっていたが

母親から受ける愛情に、少しずつ・・少しずつ・・・

ぎこちない笑顔を見せるようになっていた。


こんな日が永遠に続けば良い・・


そう思っていた冬の訪れを感じる

ある寒い夜のこと・・・


ささやかな幸せに包まれた僕たちに

生まれて初めて「絶望」という名の恐怖が訪れる。


つづく


当時暮らしていたアパートの写真。
読者登録してね