≪神はその人が乗り超える事の出来ない試練は与えない≫


それは守護霊の声だったか・・

遠い昔、僕はその言葉を教わった。


今の世の中、自殺者は上昇の一途を辿り、

僕の周りにも自ら命を絶った者がいる。


生きることをどうか諦めないで欲しい。


少しでも・・・

誰かの生きる勇気になればと思い、


僕はこの自叙伝を書く事にしました。



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オイルショックが騒がれ、主婦がトイレットペーパーを

買い漁るためにスーパーに列を作っていた時代の話。


田園広がる、伝統ある田舎町の

総合病院で僕は小さな産声をあげた。



僕は逆子で、更には、

へその緒が首に巻きついていたため

両親は医師から

子供の命は助からないかもしれないと

告げられ、父は、妻さえ助かれば

子供はいらないと言ったそうだ。


が・・僕は帝王切開により、

未熟児ではあったが、しぶとくも

この世に生を受けることができた。


しかし未熟児ゆえの黄疸や

合併症など、様々な弊害が起こり、

生まれてからの数日間は

生死の境をさ迷ったそうだ。


まさに波乱万丈な

僕の人生の幕開けに相応しい(笑)




そして・・僕は産まれて間も無く、


5歳年上の実姉共々、突如、


親に捨てられる事となる。



両親が刑務所に入る事になったからだ。



僕は父方の祖母に抱かれ、

姉はその小さな手をひかれ・・

冬の寒空のなか、幼い姉弟は

孤児院へと連れて行かれたのだ。



祖母は、病に伏せ、寝たきりの

祖父の世話で手一杯で

小さな乳飲み子の僕と5歳の姉を

育てるだけの生活力はなかった。



親からも祖父母からも引き離された

姉と弟は、孤児院で更に引き裂かれ、

貧しく、厳しい生活環境の中、

生きていく事を余儀なくされた。



とはいえ、幸いなことに僕は

孤児院での暮らしを余り覚えていない・・

なので昔、姉から聴いた話も含めて話をしたい。



姉は孤児院の年長グループの中で生活を始め、

僕は幼児のグループの中で生活を始めた。


孤児院では例え、姉弟であろうと

一緒に過ごすことは出来ない。


冬はとても寒く、とてもひもじい生活だった。


年に数回だろうか・・

祖母が僕と姉にプレゼントを持って現れた。


祖母は僕たちの顔を見ながらいつも

言葉にならぬ声を上げて泣いていた。


ごめんね・・ごめんね・・・と

シワだらけの手を僕の頬にやさしく当てながら

曲がった背中を更に曲げて泣いていた。


僕は彼女がなぜ泣いているのかも判らず

ただじっ・・と、祖母の頬に伝う涙を見つめ

姉はそんな祖母を無表情のまま見つめていた。



つづく


※写真は1910年から存在する僕が暮らした孤児院。