次男が通う放課後デイサービスは

地元でも評判が特に高いところで

 

長期休みの日は牧場や大きな公園など

長距離のおでかけに連れ出してくれます。

 

今年はスケジュールの関係で

初詣に行けなかった我が家でしたが

放課後デイサービスが少し遠方の大きな神社に連れていってくれました。

 

帰ってきた次男が

それはそれは嬉しそうに

「お願い事をした」というので

 

「なにをお願いしたの?」

と聞いたら…

 

 

次男「二つお願いしたの。

 

ひとつは、大金持ちになりますように。

 

 

もうひとつは……

 

 

 

ママが…

長生きしますように

 

 

 

 

 

 

次男……!!!

 

不意打ちで

 

これは、ずるいぞ……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなこと言われたら…

これまでの人生が…

走馬灯のように……

 

頭の中をかけめぐっていくではないか。

 

 

**************

 

以下走馬灯です。

走馬灯なのに長い長い……。

 

 

 

小学生の頃

どこのクラスであっても

いつの間にか、いじめられポジションになる私。

 

もともと乏しい表情が

消えていく。

 

 

長期休みの

家族写真撮影でも

笑えなくなっていた私。

 

 

 

現像した家族写真は

マグネットとなり

冷蔵庫に貼られていて。

 

 

 

その写真をみて

母がぽつりと言った。

 

「あなたがいなければ

家族は笑顔だったのに…」

 

 

 

 

 

妹は言った。

 

「お姉ちゃんと一緒の学校は

恥ずかしい。

別の学校に行ってほしい」

 

 

 

家族の中に居場所がない。

 

学校では、いつ周りから

何を言われるか、何をされるか

わからなくて

 

ひたすら心を固くして

考えも気持ちも、自分で自分を縛り付けた。


 

 

地元の小学校では

3人に1人くらいが中学受験を

するなかで

 

学年で

2番目に頭のいい学校に

たった一年の勉強で合格した私。

 

 

合格した学校よりも

ひとつランクをさげて入学。

※親の意向

 

入学した私立中学。

自分はこの集団の中では

頭のいいほうだと思っていた。

 

実際

合格した中学名をいうと

クラスメイトは驚いていた。

 

「なんでそっち行かなかったの?」

と、必ず言われた。

 

それが誇らしかった。

 

 

そのころ

自分自身に

コミュニケーション障害があるだなんて

思っても見なくて

 

ましてや自分に

発達障害があるだなんて

夢にも思わなかった。

 

 

私が中学受験で

飛躍的に成績が伸びたのは

集団授業じゃなくて

個別指導塾だったから。

 

中学に入れば、再び集団授業。

集団指示の通らない私に

対策なしでは……成績転落以外はなかった。

 

 

中一の一回目の中間テストで

すでに下位に転落していた私。

 

「〇〇中学に合格したの、うそなんじゃない?」

 

クラスメイトの噂が広がり

ちょうど季節が梅雨にさしかかった。

じっとりと雨の降る季節。

 

雨でくもった窓ガラスいっぱいに

私の悪口が指で書かれた。

 

 

受験をしても

あっという間に居場所がなくなった私。

 

 

 

多分、私の場合、地元の中学のほうが

「同士」がいた分

いくぶんか「わかってもらえない辛さ」が

緩和していたと思う。

 

いつも私は大事なところで

選択を間違える。

 

 

中学高校は

校則が都道府県内でも

有名なほど厳しいところだったので

縛られたルールの中

部活をたよりに

窮屈な生活を過ごし…

 

大学で、一気に自由になると

コミュニケーション下手ゆえ

これまた大きく転ぶ。

 

自分の居場所がない

私なんか

生きていても、意味がない。

 

 

21歳。

 

私が支えたいと思える人が

現れた。

 

 

”この人は

私じゃなきゃだめなんだ”

 

そう思える人と出会えた。

 

「大事にしたら、相手が笑顔になる」

「言葉にできない気持ちを

感覚で受け取ってもらえる」

 

彼は、私にとって

今までいなかった存在だった。

 

彼とは、相手の意向で

お付き合いするという形を

とらなかった。

 

けれど毒を吐き

私を思い通りにすることが

生きがいとなっていた

苦しい実家のシェルターのように

 

彼の部屋に入り浸るようになった私。

 

 

お付き合いしていないのに

どちらかともなく

関係は進んでいく。

 

そして間もなく

彼は私に暴力を振るうようになった。

 

 

私が彼の家に入り浸ってから

命からがら逃げた

2年半の間に

 

私は3度ほど

死の危険があった。

 

 

私はどこにいても…

 

私が大事にしたいと

思えた人と一緒にいたとしても

 

生きていることを

願われない……。

 

彼と一緒にいた日々のなかで

新卒の就活のタイミングが

「氷河期越え」といわれた

採用難の年だった。

 

60社落ち続けて

やっと私の「キャラ」を

買ってくれた会社があった。

 

倍率は50倍。

決して低くはなかった。

選んでもらえた。

 

けれど、その後3か月間の

親からの説得により

私はその会社の内定を

辞退する運びとなった。

 

 

親から紹介された会社

「簡単な仕事だから」

「誰でもできるから」

「親は、こどものころからのあなたを誰より知っている。あなたの適性をこれ以上見抜ける人はいない」

 

そういわれて決まった就職先。

 

ADHDとめちゃくちゃ相性の悪い

事務職だった。

 

ミスをしないどころか

ひとのミスを見抜けないと

まわらないような仕事なのに

 

ミスを連発する私は

やっぱりここでも落ちこぼれだった。

 

 

私は大事なところで

やっぱり選択を間違える。

 

 

続きます。