* Strait of Anian * | ☆光のかけら☆ 乱蔵

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彩られた
言の葉*言霊*花鳥風月
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北緯48度29分、西経124度50分

アジアにつながる
夢の北西航路

アニアン海峡
Strait   of   Anian

北極海を通り抜け
1598年に発行されたウィレム・バレンツの
歴史的な北極海の地図
1596年のバレンツの航海における
調査結果を基に描かれている
地図には海の怪物や船
クジラ🐋などが描き込まれ
「アニアン海峡(Estrecho de Anian)の文字がある


ヨーロッパの歴史において最も熱心に
探し求められたものの一つが
北西航路だ
当時
アジアに行くには南米を回って
危険で骨の折れる航海をしなければ
ならなかった
それに代わるルートとして
大量の流氷が漂う北極海を通り抜けて
無尽蔵のアジアの富を
獲得できる交易路を発見できれば
国にもたらされる利益は計り知れない
何世紀もの間
そのような航路は打算的な期待から
生み出された単なる想像でしかなかった
本物の北西航路は1850年に
ロバート・マクルアーによって発見され
1906年にはノルウェー🇳🇴の探検家
ロアール・アムンセンが航海に成功した
だが
それまでの数世紀は
このような航路につながる可能性のある
入り江や河川の存在があちこちで言い伝えられ
地図🗺に描かれ
大金をかけて探し求められてきた
その中でも最大のものがアニアン海峡だ

(ベーリング海峡のように)北米の北西部と
アジア北東部の間に存在し
北極海航路の西の端につながっているという
噂があった海峡が
地図に姿を現すようになったのは
14世紀中期から後期にかけてのことだ
北西航路を求めて
ジョン・カボット
フランシス・ドレイク卿
ガスパル・コルテ=レアル
ジャック・カルティエ
ハンフリー・ギルバート卿
などの探検家が航海に出た
「アニアン」という名前は
13世紀にマルコ・ポーロが『東方見聞録』の
第3巻5章に記した湾の話に由来すると
考えられている
そこには
トールマンをはじめとする多くの者たちが
すでに言及しているように
北部の海岸に沿って
2ヶ月ばかり航海していくと
マンジ国の南部に出て
そこからアニアの国にたどり着ける
とある
ポーロはそこの地形についてくわしく説明し
最後にこうまとめている
この湾は非常に広大で
住民も数多い
まるでここにもう一つ別の世界があるようだ

ここでポーロが言っているのは
ベトナム🇻🇳北部のトンキン湾のことで
かなり南に位置していることは明らかだが
情報を探し求めていた地図製作者たちが
ポーロの報告に合うように周辺地域の海峡に
「アニア」という名前を
使おうとしたであろうことは想像に難くない
アニアン海峡が最初に地図に
掲載されたのは1562年で
イタリア🇮🇹人の地理学者
ジャコモ・ガスタルディが作成した地図だった
その後
1567年には地図製作者の
ボロニーニ・ザルティエリと
ゲラルドゥス・メルカトルの地図にも
採用されている
北米とアジアを隔てる
北米地域のみを対象とした初期の印刷地図
北米大陸とアジアの間に
アニアン海峡(Streto de Anian)が描かれている
作成者はヴェネツィアのパオロ・フォルラーニと
ボロニーニ・ザルティエリ(1566年)

夢のアニアン海峡は
なかなか見つからない北西航路の発見に
つながると期待されたため
探検者や地図制作者の間でその後も
数百年間にわたって語り継がれた
ヨーロッパではアジアとの交易が
盛んになりつつあったが
陸路で交易品を運ぶにしても
喜望峰をまわって船で航海するにしても
道のりは非常にきびしかった
特に海路は危険が大きく
1488年に喜望峰を発見したポルトガル🇵🇹の
バルトロメウ・ディアスは
この地を「嵐の岬」と名づけていたほどだ

アニアン海峡を航海したと主張する人間は
何人も現れた
アニアン海峡とファン・デ・フーカ

ギリシャ🇬🇷の探検家ファン・デ・フーカ
(1536〜1602年)もその1人だ
ヌエバ・エスパーニャ総督の命を受けた
デ・フーカは
言い伝えられている航路を探して
2回の探検に出かけた
1度目の航海は200人の乗組員を乗せた
3隻の船で出航したが
船長の「不正行為」を
原因とする反乱が起こり
乗組員たちが船を
カリフォルニアに向けたため
早い段階で航海は挫折した
という記録が残っている
2度目の航海は1592年のことで
総督はデ・フーカに2隻の船でもう一度
同じ地域に向かうように命じた
こちらの航海は前回に比べれば
成功を収めたといわれている
貿易商人のマイケル・ロックは
デ・フーカについて次のように記している

北緯47度線に近づくと
北側に浮かぶ陸地の北緯47度から
48度の間の北東の方向に
広い海につながる入り江が見えた
彼はその入り江を奥へと進み
20日間以上も航海を続けた末に
最初の入口よりもはるかに広い海を発見した
(中略)
彼は広大な大陸を船で横断したのだ
(後略)

デ・フーカは
海峡の入口は背の高い岩がそびえ立つ
巨大な島でさえぎられていた
という記録を残した
その後
デ・フーカは自らの発見に
対する見返りを期待し
喜び勇んでアカプルコに帰還したが
彼の望みは叶えられなかった
北米大陸の北の果てに
アダム・ツェルナーの
『南北アメリカ大陸地図』(1707年頃)には
狩人姿の先住民が描かれた装飾枠のすぐ下に
「アニアン海峡(Fretum Anian)とある

デ・フーカの航海について書き残した人間は
イギリス🇬🇧人のロックただ1人しかおらず
ロックはデ・フーカとヴェネツィアで
知り合ったと証言している
(そしてロックは航路探索を
熱心に進めたがっていた)
そのため
デ・フーカも架空の人物
だったのではないかと考える学者たちもいる
しかし
デ・フーカが実在していなかったとしても
興味深いことに彼が残した地理的記録には
正確な部分もある
1787年
チャールズ・ウィリアム・バークレー
という名の毛皮商人が北米大陸西海岸の
フラッタリー岬で海峡を発見し
デ・フーカが主張していた場所より
緯度にして1度分(およそ69マイル、111km)
ほど北ではあったものの
デ・フーカの報告どおりの岩の柱を見つけ
これこそがデ・フーカが見つけた
入り江だと考えた
(これは現在デ・フーカの柱として
知られている)
デ・フーカが発見した
とされていたアニアン海峡は
スペイン🇪🇸の探検家
ロレンゾ・フェレル・マルドナドが
デ・フーカより4年早い1588年に
反対側から水路を航行したと主張し
それも存在の根拠とされていた
(マルドナドの話は明らかにでっちあげ
とわかるもので
当時はほとんど注目されなかったが
18世紀後半のバークレーの再発見により
アニアン海峡は再び脚光を浴びた)
バークレーが発見した水路は
ファン・デ・フーカ海峡と名づけられたが
セイリッシュ海から太平洋の出口までの
長さはわずか95マイル(153km)しかなく
現在ではアメリカ🇺🇸とカナダ🇨🇦を
隔てる国境になっている
アジア極東の海峡
オルテリウスが1598年に作成した
タータル王国の装飾地図
地図中央のすぐ東側(船の絵の下)に
「アニアン海峡(Stretto de Anian)とある
その下に記された島々は日本

大陸を横断する航路が
必死に探し求められていたことが
数百年間にわたってアニアン海峡という
亡霊が地図の中をさまよっていた理由だろう
1719年に
ハーマン・モールが作成した地図では
アニアン海峡はカリフォルニア島の北の
北緯50度のところに湾として描かれている
ヨハネス・フアン・ケルンによる
1728年版の地図🗺でも
同じ場所にアニアン海峡が載っており
次のような注釈がついている
この海峡はハドソン湾につながっている
といわれているが
事実かどうかは定かではない
1772年にサミュエル・ハーンは
ハドソン湾から陸路で
コッパーマイン川まで行き
再び引き返してきた
航路を探し求めて
移動総距離3600マイル(5800km)を越える
途方もない旅をしたわけだが
アニアン海峡はとうとう見つからなかった
こうして
強い希望を抱き続ける
ごく一部の人々を除いて
アニアン海峡の伝説を信じるものは
いなくなった
磁北極の近くに
コルネリス・デ・ジョードが1593年に描いた
北米大陸西海岸の図
地球🗺
ブルー音符
音符
こんばんは✨✨
幻のカケラ🗺拾って下さって
ありがとうございます
仕事柄図面はいつも見ていますが
もう一つ
ずーーーーーーーーーっと見ても
飽きないのが 地図🗺
あるはずのない「幻」を地図🗺に記し
夢を膨らませ
未知なる地へと旅立った人々へ
思いを込めて・・・・・・
照れ
画像
Google    より
お借りしております






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