捏造大虐殺
Q:なぜ日本軍が迫っているのにあれほど多くの市民が南京にいたのでしょうか?誰も日本人の襲来に気がつかなかったのでしょうか?
1937年11月20日に国民党政府が移転し、政府職員も撤退しました。旧日本軍は急ピッチで進撃を続け、その残虐さを伝え聞いた近隣の人々は続々と南京に集まっていました。南京には戦争の空気が漂っていましたが、外国人が設立した難民居住区が唯一の希望となっていたのです。欧米人が管理する地域は安全だろうと人々は信じていました。
また、旧日本軍が平民を傷つけることはないとの幻想を抱いていたのかもしれません。しかし入城後の焼き討ち、殺害、強姦、略奪は人々の幻想を打ち砕きました。市民も自宅を離れ安全区に逃げ込んだのです。安全区の面積は全市街地の8分の1という狭いものでしたが、そこに20万人以上が収用されました。
Q:南京大虐殺の歴史写真は本物なのでしょうか?
南京大虐殺の写真は主に2種類の出所があります。第一に南京にいた欧米人が撮影したもの。米国人宣教師ジョン・マギーが撮影した写真やフィルムが代表格です。第二に旧日本軍の兵士や従軍記者が撮影した写真です。そのほとんどは公開されることはありませんでしたが、一部は中国人が経営する写真館で現像され、暴行の証明として持ち出されました。後に南京軍事法廷で証拠として採用されています。
ソース:レコードチャイナ
支那が主張する南京大虐殺についての記事です。
さて、ある記事で捏造大虐殺を信じ、頭を真っ赤に染められたオーストラリア人とブラジル人へ反撃する日本人とイギリス人のやりとりがありましたので紹介します。
オーストラリア人
ようみんな。南京虐殺がなかったと主張するバカどもがいるけど、みんなはそんな愚か者になっちゃだめだぞ。それはナチスのホロコーストがなかったと主張するのと同じ愚かなことだ。南京虐殺もホロコーストも明白な証拠がある。なのにそれらを否定するのは、そこから生還した人たちに対する冒涜だよ。ましてやこれが反日プロパガンダだなどというのは恥ずべきことだ。僕には日本人の親友が何人かいる。そして今の日本人を愛する者として言っているんだ。日本は歴史に関してもっと正直になるべきだと思うよ。日本人が戦争中、ひどいことをやったという事実は曲げられないんだから。
日本人
東京裁判に出席したマギー牧師は、自分が目撃した殺人事件はたった一件でしかなかったと証言している。しかも、実際には一件も目撃していなかったことを彼は日記の中で告白しているんだ。また蒋介石も戦後、南京虐殺などなかったと涙ながらに告白している。ちなみに蒋介石は南京陥落後の翌年、300回以上も開いた記者会見の席で一度も南京虐殺に言及していない。南京虐殺は、日本人に贖罪意識を植え付けるためアメリカと中国が仕組んだプロパガンダだよ。
ブラジル人
蒋介石はダムを決壊させ、50万人もの自国民を殺した殺人者だ。お前はそんな蒋介石がえらくお気に入りのようだな。胸くそ悪いやつめ。
日本人
私の歴史への関心は憎しみにもとづいたものではない。あなたと違ってね。私たちは嘘、プロパガンダの中から真実を選り分ける必要がある。
ブラジル人
これみてみな。
※
本当は写真ですが、グロテスクなので、自主規制。
日本人
赤ん坊を串刺しにして殺すような習慣は日本にはない。しかし、中国にはある。この写真はプロパガンダ用に作られた偽物だろう。
イギリス人
その通り!南京に転がる死体は、たんに日本軍を悪くみせるために誰かがわざわざ置いたものだったし、殺戮の証拠も犠牲者の証言もみな日本をおとしめるために意図的につくりあげられたってわけさ。
記事のコメントですが、本当は長いのですが、捏造大虐殺に関しての記述のみを抜粋しました。
支那の発表を鵜呑みにするコメントばかりでした。
さて、レコードチャイナの記事に書かれていた所でおかしな点です。
1937年11月20日に国民党政府が移転し、政府職員も撤退しました。
調べたら政府等は同年十二月一日、蒋介石等はそれより後。
移転先は重慶。
欧米人が管理する地域は安全だろうと人々は信じていました。
また、旧日本軍が平民を傷つけることはないとの幻想を抱いていたのかもしれません。しかし入城後の焼き討ち、殺害、強姦、略奪は人々の幻想を打ち砕きました。市民も自宅を離れ安全区に逃げ込んだのです。安全区の面積は全市街地の8分の1という狭いものでしたが、そこに20万人以上が収用されました。
※
捏造大虐殺を論破(?)するためにかなり長いです。
安全区は存在しましたが、この記事には面積が記載されていません。
調べると3.8平方キロメートルこれは日本で最も小さい市町村の蕨市よりも狭いです。
蕨市の面積は5.1平方キロメートル。
更に安全区には20万以上が避難したとあります。
蕨市の人口は7.01万(2007年)です。
蕨市の面積よりも狭い所に蕨市の人口の三倍もの人がいた事になります。
欧米人による安全区とは言え、(低層)ビルは無かったと推測できます。よってこれは嘘である可能性がほぼ確実。
30万人が虐殺されたと支那は発表していますが、旧日本軍が南京に入城した時の人数は約20万人。
ここでさっきの避難した人と虐殺された人数を足すと南京には50万人以上いた事になる。
南京の市民が20万人であった証拠を幾つか紹介しよう。
日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表。そののち日本軍は12月13日に南京を占領。5日後の12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表。
12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表。
上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っている。
占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないとし、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万~27万人程度だろう」と書いています。
南京市民最高値である25~7万人でも30万人には届かない。また、この記事で「安全区には20万人以上が避難」とある。
南京に展開されていた支那軍人の数も調べてみた。(一部のみ抜粋)
杜聿明(支那)
陸軍装甲兵団司令
南京防衛の十余万の将士は、蒋介石の投降主義のため、不必要で報われない犠牲となった。
飯沼守(日本)
上海派遣軍参謀長少将
〔十二月十七日〕
今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約二十コ師十万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍及び第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの今後尚撃滅数増加の見込。鹵獲品は相当多数の見込みなるも未だ調査完了せす。
日本、南京国際委員会の人数は先も述べた様に最大27万人、軍人で死んだのは10万人で合計すると37万人になるが、ここに支那の30万人を引くと7万人が生き残った事になるが、記事では20万人以上が安全区に避難となっているので、やはり、捏造大虐殺としか言えない。
ここからは通常に戻ります。
旧日本軍の兵士や従軍記者が撮影した写真です。そのほとんどは公開されることはありませんでしたが、一部は中国人が経営する写真館で現像され、暴行の証明として持ち出されました。後に南京軍事法廷で証拠として採用されています。
この様な記述を発見しました。
日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。
つまり、大虐殺を行った上で入城すれば、大虐殺は世界中に報道されていたでしょう。
また、入城後だと先に出てきた南京国際委員会が報告していたでしょう。
しかし、支那は捏造大虐殺があった証拠に東京日日新聞(現:毎日新聞)の百人斬りと公開処刑の写真が日本軍による虐殺の証拠としていますが、百人斬りは「士気向上」の為に作った捏造記事で、百人斬りは存在してません。百人斬りを行ったとされた兵士は当時記事を知りませんでしたが、後に知り「事実無根」と記事を否定しました。
公開処刑の写真ですが、支那は致命的…と言うかヴァカをやらかしました。南京に日本軍が入城したのは十二月。つまり冬になります。なので長袖でないとおかしいのですが、写真に写っている人達全員が半袖なのです。
日本軍が南京入城後にイギリスの英字新聞が発行されていましたので紹介します。
1937年12月24日の紙面をで日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
(南京陥落の11日後の記事です。)
日本とイギリスは敵対していました。イギリス紙でこういったのがあると言う事はどちらが嘘かわかりますね。
Q:なぜ日本軍が迫っているのにあれほど多くの市民が南京にいたのでしょうか?誰も日本人の襲来に気がつかなかったのでしょうか?
1937年11月20日に国民党政府が移転し、政府職員も撤退しました。旧日本軍は急ピッチで進撃を続け、その残虐さを伝え聞いた近隣の人々は続々と南京に集まっていました。南京には戦争の空気が漂っていましたが、外国人が設立した難民居住区が唯一の希望となっていたのです。欧米人が管理する地域は安全だろうと人々は信じていました。
また、旧日本軍が平民を傷つけることはないとの幻想を抱いていたのかもしれません。しかし入城後の焼き討ち、殺害、強姦、略奪は人々の幻想を打ち砕きました。市民も自宅を離れ安全区に逃げ込んだのです。安全区の面積は全市街地の8分の1という狭いものでしたが、そこに20万人以上が収用されました。
Q:南京大虐殺の歴史写真は本物なのでしょうか?
南京大虐殺の写真は主に2種類の出所があります。第一に南京にいた欧米人が撮影したもの。米国人宣教師ジョン・マギーが撮影した写真やフィルムが代表格です。第二に旧日本軍の兵士や従軍記者が撮影した写真です。そのほとんどは公開されることはありませんでしたが、一部は中国人が経営する写真館で現像され、暴行の証明として持ち出されました。後に南京軍事法廷で証拠として採用されています。
ソース:レコードチャイナ
支那が主張する南京大虐殺についての記事です。
さて、ある記事で捏造大虐殺を信じ、頭を真っ赤に染められたオーストラリア人とブラジル人へ反撃する日本人とイギリス人のやりとりがありましたので紹介します。
オーストラリア人
ようみんな。南京虐殺がなかったと主張するバカどもがいるけど、みんなはそんな愚か者になっちゃだめだぞ。それはナチスのホロコーストがなかったと主張するのと同じ愚かなことだ。南京虐殺もホロコーストも明白な証拠がある。なのにそれらを否定するのは、そこから生還した人たちに対する冒涜だよ。ましてやこれが反日プロパガンダだなどというのは恥ずべきことだ。僕には日本人の親友が何人かいる。そして今の日本人を愛する者として言っているんだ。日本は歴史に関してもっと正直になるべきだと思うよ。日本人が戦争中、ひどいことをやったという事実は曲げられないんだから。
日本人
東京裁判に出席したマギー牧師は、自分が目撃した殺人事件はたった一件でしかなかったと証言している。しかも、実際には一件も目撃していなかったことを彼は日記の中で告白しているんだ。また蒋介石も戦後、南京虐殺などなかったと涙ながらに告白している。ちなみに蒋介石は南京陥落後の翌年、300回以上も開いた記者会見の席で一度も南京虐殺に言及していない。南京虐殺は、日本人に贖罪意識を植え付けるためアメリカと中国が仕組んだプロパガンダだよ。
ブラジル人
蒋介石はダムを決壊させ、50万人もの自国民を殺した殺人者だ。お前はそんな蒋介石がえらくお気に入りのようだな。胸くそ悪いやつめ。
日本人
私の歴史への関心は憎しみにもとづいたものではない。あなたと違ってね。私たちは嘘、プロパガンダの中から真実を選り分ける必要がある。
ブラジル人
これみてみな。
※
本当は写真ですが、グロテスクなので、自主規制。
日本人
赤ん坊を串刺しにして殺すような習慣は日本にはない。しかし、中国にはある。この写真はプロパガンダ用に作られた偽物だろう。
イギリス人
その通り!南京に転がる死体は、たんに日本軍を悪くみせるために誰かがわざわざ置いたものだったし、殺戮の証拠も犠牲者の証言もみな日本をおとしめるために意図的につくりあげられたってわけさ。
記事のコメントですが、本当は長いのですが、捏造大虐殺に関しての記述のみを抜粋しました。
支那の発表を鵜呑みにするコメントばかりでした。
さて、レコードチャイナの記事に書かれていた所でおかしな点です。
1937年11月20日に国民党政府が移転し、政府職員も撤退しました。
調べたら政府等は同年十二月一日、蒋介石等はそれより後。
移転先は重慶。
欧米人が管理する地域は安全だろうと人々は信じていました。
また、旧日本軍が平民を傷つけることはないとの幻想を抱いていたのかもしれません。しかし入城後の焼き討ち、殺害、強姦、略奪は人々の幻想を打ち砕きました。市民も自宅を離れ安全区に逃げ込んだのです。安全区の面積は全市街地の8分の1という狭いものでしたが、そこに20万人以上が収用されました。
※
捏造大虐殺を論破(?)するためにかなり長いです。
安全区は存在しましたが、この記事には面積が記載されていません。
調べると3.8平方キロメートルこれは日本で最も小さい市町村の蕨市よりも狭いです。
蕨市の面積は5.1平方キロメートル。
更に安全区には20万以上が避難したとあります。
蕨市の人口は7.01万(2007年)です。
蕨市の面積よりも狭い所に蕨市の人口の三倍もの人がいた事になります。
欧米人による安全区とは言え、(低層)ビルは無かったと推測できます。よってこれは嘘である可能性がほぼ確実。
30万人が虐殺されたと支那は発表していますが、旧日本軍が南京に入城した時の人数は約20万人。
ここでさっきの避難した人と虐殺された人数を足すと南京には50万人以上いた事になる。
南京の市民が20万人であった証拠を幾つか紹介しよう。
日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表。そののち日本軍は12月13日に南京を占領。5日後の12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表。
12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表。
上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っている。
占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないとし、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万~27万人程度だろう」と書いています。
南京市民最高値である25~7万人でも30万人には届かない。また、この記事で「安全区には20万人以上が避難」とある。
南京に展開されていた支那軍人の数も調べてみた。(一部のみ抜粋)
杜聿明(支那)
陸軍装甲兵団司令
南京防衛の十余万の将士は、蒋介石の投降主義のため、不必要で報われない犠牲となった。
飯沼守(日本)
上海派遣軍参謀長少将
〔十二月十七日〕
今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約二十コ師十万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍及び第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの今後尚撃滅数増加の見込。鹵獲品は相当多数の見込みなるも未だ調査完了せす。
日本、南京国際委員会の人数は先も述べた様に最大27万人、軍人で死んだのは10万人で合計すると37万人になるが、ここに支那の30万人を引くと7万人が生き残った事になるが、記事では20万人以上が安全区に避難となっているので、やはり、捏造大虐殺としか言えない。
ここからは通常に戻ります。
旧日本軍の兵士や従軍記者が撮影した写真です。そのほとんどは公開されることはありませんでしたが、一部は中国人が経営する写真館で現像され、暴行の証明として持ち出されました。後に南京軍事法廷で証拠として採用されています。
この様な記述を発見しました。
日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。
つまり、大虐殺を行った上で入城すれば、大虐殺は世界中に報道されていたでしょう。
また、入城後だと先に出てきた南京国際委員会が報告していたでしょう。
しかし、支那は捏造大虐殺があった証拠に東京日日新聞(現:毎日新聞)の百人斬りと公開処刑の写真が日本軍による虐殺の証拠としていますが、百人斬りは「士気向上」の為に作った捏造記事で、百人斬りは存在してません。百人斬りを行ったとされた兵士は当時記事を知りませんでしたが、後に知り「事実無根」と記事を否定しました。
公開処刑の写真ですが、支那は致命的…と言うかヴァカをやらかしました。南京に日本軍が入城したのは十二月。つまり冬になります。なので長袖でないとおかしいのですが、写真に写っている人達全員が半袖なのです。
日本軍が南京入城後にイギリスの英字新聞が発行されていましたので紹介します。
1937年12月24日の紙面をで日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
(南京陥落の11日後の記事です。)
日本とイギリスは敵対していました。イギリス紙でこういったのがあると言う事はどちらが嘘かわかりますね。