白薩摩に見る愛の形 ~夫婦湯呑永遠なれ~
私のブログは、
理論が優先し、
現実は理論と少しかい離するが、
恐れずに述べる。
先のブログで紹介した
白薩摩。
金色地に透明な釉薬。
細かく入った貫入(かんにゅう・ひび)。
豪華絢爛な色絵錦手。
花器だけではなく
こんなものもある。
蓋付き湯呑茶碗。
太さやデザインから容易に判断できるように、
これは男性用。
使いこむほど
貫入にお茶の色合いが入りこみ、
味が出てくるものだと聞いたので、
しばらく使っていたのだが、
味ではなく
シミが出てくるような気がして、
途中で使用を中止した。
大したものではないのだが、
私も度胸がないことよ。
そのまま使うことなく30年以上。
それでも、
先に紹介した花器と同じく、
故郷薩摩を思い起こすに充分なものとなっている。
その道連れにされたのがこれ。
女性用湯呑。
秋を思わせる花模様が美しい。
男性用と一緒に求めたのだが、
こちらは未使用のまま
思い出の品となっている。
普通は、
夫婦茶碗や夫婦湯呑といえば、
男女とも
同じデザインのものなのだが、
敢えて違うものを
1つずつ選んだ。
同じデザインだと、
どちらかがどちらかに
なかば同調せざるを得ず、
それを嫌って好きなものを選んで組み合わせた。
近頃、男女平等が叫ばれて久しい。
だけど
叫ぶのは大体女性。
男は黙って聴いているだけ。
女性は、
女性の権利を確立するために、とかいう
大義名分を振りかざすが、
そんなたわいもないものを主張し、
女を捨てて
何の女性か。
生きとし生けるものは、
すべて、
雄花と雌花、
オスとメス、
男と女、
それぞれの役割があり、
住み分けているのが自然の姿。
戦争で最前線に立ち、
男たちが何千万人死のうと、
女性が後方に控えて、
何千万人か生きていれば、
その民族は1年後には、
女性の数だけ子孫を残せるが、
女性がほとんど死に絶えて、
男性が何千万人生きていようと、
女性がいなければ、
まるで子孫を残せない。
そのような民族はいずれ滅びる運命にある。
なまじ自由の名のもとに
男性社会に進出し、
それをよしとしている風潮は
必ずしもいいものではないと、
私は思う。
男の世界で働くのが悪いと、
私は言っているのではない。
そのような考え方の底流に流れる、
女の役割を捨てた女性を見るのが
嫌なだけである。
近頃は、
男から見て、
守るべき女性が、
守ってやらなければいけない女性が
少なくなって、
さびしいやら情けないやら。
男は男らしく、
女は女らしく。
この基本を守りながら、
共同生活を営まなければ、
お互いがお互いを必要としなくなり、
同じ屋根の下に、
経費折半で同居しているだけでは、
少しさびしくないか。
そんな現象の大半は、
女性の社会進出。
言いかえれば
自分で金を稼いで
自分で使える金を所持し、
自分が自由に暮らしたいから発生している現象で、
本来の務めを放棄して、
子供は託児所。
こう言えば、
「それは生活のため」と必ず言い返し、
己の欲望を覆い隠している女性こそ哀れ。
ちょっとおかしい。
そんな女性は、
「入るに追いつく貧乏なし」 という言葉など、
きっと知らないだろう。
分相応に生きてさえいれば、
人の幸せは得られるものを、
欲望がすべてに優先し、
本当の愛の姿が崩壊 しているのはさびしい。
個のあるべき姿を
今一度見直す時に来ている気がする。
古いと言われれば
古い考え方かもしれない。
でも、
焼き物でも何でも、
古くていいものは
幾らでもある。
原発みたいに、
進歩が世界を破滅させるものも、
またたくさんある。
新しいものがすべて良しとする考え方は、
一考を要する。

