九州の旅 4 ~偉人・西郷隆盛の実像~
日本の
近代歴史の中で、
西郷隆盛 ほど
人に親しまれている人物はいるまい。
薩摩の
身分の低い郷士の子に生まれ、
機会を得て
島津斉彬公 に仕えてから、
メキメキと
その頭角を現した西郷には、
人を魅了する
天分の才があった。
その才を見出した、
島津斉彬公こそ名君であるが、
西郷は
見事にその期待にこたえた。
薩摩の人は、
そんな西郷を
100%の人が好きだという。
銅像は
こんなところに佇み、
勇壮な桜島と向かい合う。
木々が植えられ、
時期には花で覆われる小高い築山。
人々は
その足元まで行くことはできない。
行政は
西郷を人々の手の届かないところに置いてしまった。
本人は
きっと悲しんでいるかもしれないが、
そんなことで人気の落ちる人物ではない。
すぐ前が道路のため、
危険を回避すべく
一応
撮影場所が設けられている。
西郷像が
人々から、ますます遠くなる。
だから、
皆さんには
ズームアップして紹介しよう。
上野のお山の西郷さんと違い、
こちらは軍服姿。
顔もちょっと引き締まっている。
像の大きさを
女子生徒が計測した値が出ているので、
ご覧ください。
身長5.257mと言えば、
上野のお山の西郷さんより
一回り高い身長だが、
近くに寄れないので、
同じくらいの大きさにしか感じない。
上野公園の西郷銅像。
最後まで敵として戦った
会津から来る列車の終着駅
上野にあるところが興味深い。
こちらは、
足元にまで近づけるし、
浴衣姿で庶民的。
さて、
その西郷が、
命の幕引きをした城山の麓。
最後の5日間を過ごした洞窟が、
史跡として保存されている。
この洞窟を見る限り、
2つともそんな深さには見えないが、
歴史を知るお年寄りに聞けば、
この洞窟は、
山の奥深くに続き、
いろいろなところに繋がっていたらしい。
わずか5日間籠っただけで、
その洞窟が史跡になるほどの偉人
西郷隆盛。
1877年(明治10年)、午前4時、
政府軍の総攻撃が開始される。
その数4万。
籠る薩軍兵士はわずか300人。
桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった
私学校の幹部も一緒である。
西南戦争は、
西郷は担がれて大将になった。
自分が率先して
政府軍に反旗を翻したわけではなかったが、
ここが将の将たる所以。
担がれて決断を迫られた時に、
「おはんらにおいが命は預けもんそ」 と
わが命を差し出した。
好きなように使ってくれというのである。
そして城山。
賊軍の汚名を着てもなお、
「おはんらにやった命」 と、
慕ってくれた部下のために
惜しげもなくわが命をささげた。
言い訳の一つもせずに。
親分のために子分が死んだり、
大将のために兵士が命を落とすことは
歴史をさかのぼれば
いくらでもある。
しかし西郷は違った。
部下のためにわが命を差し出した のである。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
賊軍の汚名をきれば
歴史的には抹殺されるか、
嫌われるのが普通であるが、
西郷は
いまだに誰からも愛される偉人である。
西郷が城山の露と消えた知らせを聞いて、
勝海舟が詠んだ詩。
「濡れ衣を干そうともせず子供らが、なすがままに果てし君かな」
敵方であった勝は、
西郷が首謀者ではなかったことを知っていた。
慕ってくれる者たちから着せられた首謀者の地位を、
はらそうともせず黙って逝った西郷の
魂の沈黙の深さには
頭が下がる。






