古池と蛙 -3ページ目

5年と半年

いま見てみると5年と半年もこのブログは続いていたのか。一生なんてすぐだな。

そこは自動的に。

どこか深いところへいきたい。落ち込むことってあるのね。何かを破壊したい。支離滅裂。でも、昔と比べたら屁でもない。今のはすぐに元に戻るということを知っている。あの頃は次の日もまたその次の日も希望はないと思っていた。ひどいもんだ。ブログって好きなことを何でもかけるわけではないのね。あとで燃やすと決めた捨て紙に思いをぶち込めるなんてことでもない限り書けないな。ブログは知っている人が見ているわけではないけれど、自分で後から読むかもしれないと思うだけで、この年でまだこんなことを書いてしまっている自分に嫌気がさしそうで書けない。

ストレスがたまっとるのかな。とんでもない衝動があるんだけれども封じ込められている感じがある。もうほんと凡庸な悩みだな。うーむ、悩みが変化してきてる。すべてをしゃべれないことに悩みの根本があったけれども、仕事でのストレスや責任などが原因になってきている。

とにかく休憩が必要なきがしてきたーけれどもGWは十分休んだしな。何をどうすればいいんだろうか。諸行無常でこんなこともあるというのを受け入れていくのが一番か。常に変化していく。一分一秒のうちに変化がある。それを常に認識する。気分が変わっていくのがわかる。感じているものも変化する。体も変化していくことを認識する。時間が流れる。こんなにもいろんなものがすこしずつ変化していく。細胞ひとつひとつも変化していく。

こんなことを20年後とかも考えるんだろうか?また悩みは変わっていくんだろうか?なんか酔いきれない。呼吸が浅い。この夜の寝たくないという現象も原因があるんだろうな。カフェインでも飲めばやっぱり眠くはならないだろうし。物理的な原因と精神的なものもあるだろうし。とにかく寝たくない。寝てしまえばまた会社がある。現実逃避したくてしょうがない。

認知の歪みがあるんだろうな。嫌な事ばかり考えるから嫌な事ばかりの人生の気がしてきてしまう。失敗してしまったことを大きく捉えすぎてしまっている。認知療法すべき時だな。今日は仕事での失敗があった。確認不足と一時的なもの忘れでの失敗があった。あれだけの量があってミスが2個であったのは少ないもんのような気はする。でも金額で丸を一つ多くつけてしまった。みたいな重要なところでのミスだった。自分の中では人より確実にミスが多いというふうにとらえている。

周りもそのような目で見ているんではないかという考えがある。オレの頭の中には。このあたりが今日のへこみの原因だな。間違えというのは誰もが起こすものだ。そこはしょうがない。そしてオレの中では全力を尽くして過ごしてきた結果ではある。他の面では著しい成長が見られる。日常会話的なものもはとんでもなく成長している。このプラスの面が見えていなかったかもしれない。自分はダメな人間なんだという自分で作ったレッテルを正当化して心を安定させようとしてしまっていたのかもしれない。

たしかに日常の面での成長具合を加味して未来の自分の仕事具合を考えるとそれほど悪くはないように思う。仕事での余裕はできるだろうし、年を重ねるごとに重要な点というのは押さえて仕事ができるようになるだろう。そこは自動的に。慣れもあるだろうし。

てす

現状

久しぶりの更新。このブログを始めたきっかけは話べたを克服する事。3年ほどたっているけれども根本的な解決には至っていない。話の中に入り込む感じだとか、相手を信頼する事、千原ジュニアの言葉で言うところの愛を持って相手に伝えるという事、などなど。いろいろとわかってきたことはあるけれども体がついていかない。話をするというのは頭で理解できる事ではない。水泳や野球などのスポーツのように体か自然と動くようになるまで実践を繰り返していくしかないというのはわかった。

何が言葉を出さなくしている原因なのか?
まずは相手の話している事を理解するというところもできでいない。言葉数が少ないために相手もこっちの言っている意味がわからない。言葉を多くしすぎる(そんなことはほとんどないけれども)とリズムがくずれる。脳みその基本的な部分が働いていないというのもあるだろう。連想して想像して発想する機能がほとんど働くなっている時を実感するときがある。これは仕事の能力にも影響している。上司からの伝達を10まで聞かないと理解する事ができない。10聞いてもわからないときもあるのでその時はわかりやすい例をだしてもらう。

3年前と比べて。
何がかわったかといえば、話せないという事実を客観的に見る事ができるようにはなっている。相対化しているとも言える。話せない事で人生の大部分を生きられなくなる、なんてことはない。これはもてないのは太っている事がすべての原因だと考えているのと似ているかもしれない。太っていることをコンプレックスに感じて、生活の他の面でも堕落してしまうともてないかもしれないが、太っていても清潔感があり、太っている人のおしゃれをし、太っている人のあつまるコミュティの中にでも入ればその人の居場所はできるだろうし、恋人もできるだろう。

なんとなく、落ち着いてくれば、自分のペースで話せるようになるのではないかと思う。

半年ぶりの更新

知らせがないことは良いことだ。とよく言われているけれども確かにその通りだと思う今日この頃。この半年は大分、調子がよかった。気分がしずんでいる時がどういう状態だったのかあまり思い出せないくらいに上々だった。自分のことをうだうだ考える時間が少なくなって暇になってきたのもあり、女の人と交流を持ちたいと思って、銀座のバーティに参加したりもして積極的に外にでるようになっていた。

パーティーで声をかけた人と今もあったりしている。ただ、本彼女ではない。このまま関係がだらだらと続くと、そのまま情に流されて本気で好きになっていきそうでどうしようか悩んでいる。もう一人作ってしまおうかなとか考えたり…。今の状況に甘んじていると結婚ということになりそうだ。ってさっきからかなり失礼だな。相手に対して。それほど大した男ではないのに理想が大きくなってしまう。

話べたについては、どういう方向で努力すれば良いのかが少しわかってきたというのが自分の仲での変化では一番大きい。ある程度の波があるのはしょうがない。脳のシナプスが次々につながって連想ゲームよろしく言葉が口からあふれてくることもあれば常に眠いかのように頭が何にも働いていない時もある。そんな時はしょうがない。自分の好きなことややりたいことを想像して、内側からの衝動が出てくるようにしむけていく必要がある。

仕事では、自分の頭の悪さ加減が半端でないことがわかった。ただ、それで悲観している訳ではない。頭の悪い人は悪いなりの仕事の仕方がある。はず。ゴールへ向かっていく道はたくさんある。自分にあった道でいけばいい。

ブログを更新しようと思った理由は、自分が経験したことをことごとく忘れてしまうから。最近見た映画が何であったのか聞かれて全く出てこなかったから。タイトルだけでなくて内容、絵も思い出せなかった。これはどうしようもない。本当に、会話というのは連想ゲームだ。思い出せればいい。知っていることを話せば良い。これ父の言葉。忘れないようにしていこう。

アゲハ

新木場アゲハへ行ってきた。新木場から歩いて五分位のところにある。橋をわたったところにあるんだけどわたってる途中から音がガンガン聞こえてきてわかりやすい。1時近かったけど結構並んでいた。入り口前に4列あって、なにが何の列かわかりにくい。看板はあるんだけどうろうろしていると田舎者っぽく思われそうだから近くのそれっぽい列に並んだら間違ってた。それぞれ当日券と招待状とIDチェックともう一つ何か?の列があって案内もされないから一人でわかんなかったら暇そうにしてる従業員に聞いた方がいい。おれはアホなことにそれで40分ほど無駄にした。なぜか当日券は待つ必要もなくすんなり入れた。

一番見たかった田中知ゆきは1時に入場したときには終わっていたみたい。クラブ系の音楽が好きになったキッカケの人でもあったから見たかったな。もう一人好きな中田ヤスタカ?の曲で踊れたのは良かった。ただちょっとひねりを入れてるみたいで盛り上がるところがワンフレーズ遅れてくる感じはあった。
思ったより踊れる自分に驚いた。音に忠実にゆだねる感じで体を揺らしていたらうまくいった。

会場内はなんとなしに自分と同じように始めてくるお客も結構いるみたいで観光地化しているみたいだな。中田ヤスタカがプロデュースしているパフュームつながりできている人もいた。おれがそういう風に見られていなかったことを祈ろう。ま、別にそうみられてもいいか。

没頭できるものが欲しい

久しぶりの更新。話し下手についてはあまり考えないようになった。といっても1日に一回は考えるし頭の中から悩みが消えたわけではない。ただノイローゼのように頭の90%を占めているような状態はなくなってきているように思う。あいかわらず口べたではあるけれどもそれ以外に考えなくてはいけないことが増えてきたという感じなのかもしれない。悩みを解消する方法は他に悩みを作ることがよいかもしれんね。

最近はゴールデンウイークに9日間の休みを貰って仕事のことは頭から消し去ることができてなかなか充実していた。

何か没頭できるものが欲しい。面白い映画や本に熱中したり旅行で次に行くところを考えたりしているときは濃密な時間を過ごせていると最近思う。いつの間にか時間が過ぎていたというようなことを増やしたい。

あと何もしていなくても幸せであるという感覚を忘れないようにしたい。タイでの座禅はじわじわとオレの人生観に影響を与えているなと感じる。

コーヒー

食後の余韻は後味が悪い。薬っぽい味が口に残る。レインボーと贅沢なんたらと、青い山の絵が印刷されてるのをよく飲んでいる。

今日は風邪を引いて午前半休にした。特に問題なし。

自己啓発が嫌になる要因

最近、勝間さんの「起きていることは全て正しい」という自己啓発本を読んだ。自分を成長させていくための考え方とそれを実践していくための技について書かれていた。他の啓発本と違うところは、理論だけで終わらせないで行動に落とし込んで具体的な技として紹介しているところにある。例えば、三毒追放という「妬まない、怒らない、愚痴らない」の三つを言葉通り追放する技がある。これは潜在意識にこの言葉を染み込ませないようにすることで不快な状態を避けるという、まぁそんな感じの技だ。特に潜在意識についてNLPを交えて紹介してくれている。

オレの問題はこの潜在意識をうまく誘導させることができないことにある。苫米地さんは現実よりもセルフイメージを強化することでセルフイメージを自分の現実にしていくということを行っていたけれど、現実での打ちのめされ具合が大きすぎてセルフイメージなんかでは勝てないんだよな。

やる気の出るような目標

できそうなことを目標にするとやる気がでる。具体的な数字をかかげるのもいい。それを達成していくことで自信がついてくる。自然と力がついていく。当たり前のことをやるだけでできる人と呼ばれるようになると思う。自分の頭がいいのではなく、ただ普通に事を為せる人になるということなんだろう。

具体的な目標を何にするかを決めるのが苦手だな。発想力が必要になる。言葉がぽんぽんと出てくるような柔らか頭を持っている人は自分でやる気の出るような目標を密かに作り出しているのかもしれない。