昨夜、寝ながら下のYouTube聞いていたときに
井上老師への質問の回答に
ぐぐっと引き込まれて
今、その部分を聞き直しました。
【後編】井上哲玄老師 第1回京都禅カフェ 2016年8月7日
はじめところ一部メモ
この人がまったくいないって生き様をしってほしいんですよ。
わたしが理解できるとかできないとか、
わたしが学ぶとか学ばないこととかって
そういうことじゃないんですよ。
今このものが触れている事実を無視して、
考え方の中でよい理由を一生懸命さぐっているんですよ。
耳は絶対に疑いませんよ。
「雪ほど黒いものはない」と言ったら、その通りに聞こえる。
目は雪に触れたときに、黒いって言われたのに
白いじゃないかって
目はさっき聞いた言葉には用がない。
目は目の活動として、触れたら触れたように見えるんですよ。
五感は人の言葉に一切騙されないようになっている。
頭の中が混乱したからって、
物が半分しか見えなくなりましたってとかない。
言葉が半分しか聞こえませんとか、
味が70%しかわかりません。って
そんなこと一切ないでしょ。
そっくりその通り、寸分ずれがないような活動をしながら、
跡形がないようにして
そういうことだけで、ずっと変化して生きているだけでしょ。
修行らしい様子も、人間のすばらしい生き様みたいなことも
超えちゃっているでしょ。
だから、自分のおっしょさまは自分の機能。
とことんこの自分と付き合うだけです。
引き込まれた質問と回答
15分くらいのところ~
(質問)例えば誰かに腹が立つことようなことを言われたとして、
腹が立って、腹が立つということについていくって言うか、
言葉に言葉をつけていって、あたかもあるような感じになってくるけれど、
そこで、ちょっと踏みとどまって、起こっているというところで
じっとしていると、本当にあるんかというと、なんか
あるような、ないような感じで、しばらくしたら
消えていくみたいな、そんな両方の体験がしょっちゅうあるんですけど、
そういうようなことを自分で気づいていくってそういうことなんですか?
(回答)そうそう。腹が立っているって言うけれども、
腹が立っているって思い込んでいるけれども、
本当に、このものが腹が立っているのか
いわゆる自我が支配としたこのわたしが腹が立っているのか
このものの様子の活動なのか、
本当に腹が立っていることに
そこにわたしなんていないの
だから、そういうことを直接みて
わたしが腹立てていると思っていたけれども、
わたしなんてどこにもいなくて、
だから、腹立っているという様子があるだけじゃないか、
って言うようなことをね、そんときに体験として、
アレっ、今までなんか勘違いしていた。
思い込みしてた。それが改ま(?)なんですよ。
考え方で理解したやつは、なんか改まったようだけど、
またころっとひっくり返る。
そういうことなの。
自分の体が反応して、その内容に言葉に言葉を重ねて
あることないこと妄想しだすので、
これを自分に応用して
いろいろ実践できると思ったので
ブログに貼り付けです。