自我の話 真逆 | 素人アートのメルカリ販売チャレンジ

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YouTube貼ろうとしたら、わたしのパソコンが問題なのか
貼れなかったので、



井上哲玄老師公式チャンネル
「平和」 不平、不満、愚痴は自己にあり


13分くらいのところ~一部書き起こし


自我を離れることをしゅたいとするんじゃないんですよ。

自我が離れているということの方にしっかりみが向いてもらわないと。

普通は、自我観念が育って、概念がきちっとして、
それが根を張って、なかなか取れない、取れないと
それをどういう風に取っていったらいいのかっていう話は
どこでもやってくれています。


そうではないのよね。
お釈迦様が悟られて、伝わってきた仏教の本質っていうものは


真逆なんですよ。



産まれたときには自我観念がないんですよ。
自我は持ち合わせていないんですよ。


もともと無我なんですよ。


で、誰もが経過する物心つくという時点で、
この産まれてきた、この体、この信心をわたしの所有物
として認めたところが、自我観念なんですね。


だから、観念だから実物じゃないんですよ。



思い込みだから、
だから
思いが離れているときには、知らずにそのまま聞こえ、
そのまま見え、そのままにおい、
そのまま味わえて、純粋に六根という人に機能がありますけれども、

機能が機能として純粋にただ働いている。


そういうことを知って、
そこにしっかり目を向けて、
日常生活をしていただく。


座禅するときもそうであり、
食事するときもそうであり、
通勤電車に乗っているときだってそうであり、



この体の作用のことだから、
どこにいようがですね、
どういう状況であろうが、
そっから離れることできないでしょ。


自分のこの活動だから。


この自分から離れるってことはできない。


この離れることのできない、この本体。
このものがどうなっているのかっていうことを
まずしるってことが、一番根本にあるわけですよ。




自分を救うのは自分だっていうとこに。

自分のことが本当によーくわかってもらったら、
誰でも自分で自分が救われていることが
よくわかる。


そしたら、誰に太鼓判押してもらわなくたっていいじゃないですか。


自分で自分が救われたことがよくわかる。


消して人に救われるということではない。



(中略)





まずは、理解ができたら、
理解に用があるわけではないんで、


そうなっている。


これからつくるんじゃないんですよ。


そうなっている自分に目を向けてほしい。




それにはどうするかといったら、
人に六根という機能がある。

この機能が、機能のまま純粋に働いているところに
しっかり目を向けていただくと、

人間の思いの、良し悪し、
好き嫌い、そういう何もついていない姿がね、
自分で、ああ、本当に、思いもそのとき思えただけで、
純粋にただ思えた働きがあって、
思いが止んだときには、どこにも跡形もないようになっている。



そういう風にして、人っていうのは本質的に
生活ができているから、
ああだこうだっていうけども、
こうやってみんな平気で生きていられるのは、
本質がきちっとふうじているからなんですよ。


そのことが自分で本当に、胸落ちが
ああ、本当にそうだ
こんなにスカッとしている。


こういう生き様っていうものがあって、
それを使いながら今生きているのに、
それに気づかずにいて、


自分の思いで、あっちひねくり
こっちひねくりしながらね、


うなぎじゃないけれども、
のらりくらりでもしながら
まあ、一生なんとかついていくからね、

だいたいそんな生き方になっているんですよ。



そうじゃなくて、
自分の本質をしって、
生きることができたら、


それは一日も早ければ早いほどいい。