(164)華夏=天帝・天子・天権の思想 | Around Seventy

Around Seventy

目にしたこと・耳にしたこと・気がついたこと・考えたことを徒然に。
Webニュースに書ききれなかったこと、撃ち漏らしたことなどを掲載します。

中原(Wikipediaから)

 

 5世紀の倭國――倭讃から倭王武にいたる5代――が宋帝国との往来で学んだのは、宮廷官僚機構や儀礼といった政治体制だけではありませんでした。外形的な組織や制度を継続的・安定的に運営していくには、それを裏づけている「天」「九服(九畿)」「四夷」の概念が不可欠でした。それは華夏を華夏たらしめている政治思想だったのです。

 

 華夏にあってこの世界は天帝が支配しており、諸王の中から選ばれたただ一人の王が天子として天帝を祀ることができる、とされました。天帝と天子の特別な関係を「天権」と理解するのです。王権の根元を「天」という概念に求めるのは極めて哲学的で、それを理解するには陰陽五行思想のほかに、儒教や道教の知識が必要でした。

 

 天帝に選ばれた天子が天権を以って地上を支配し、その天権は正統な王統に世襲されます。陰陽五行思想に基づく干支(十干十二支)の巡り合わせが、例えば辛酉年に天命が革まる「辛酉革命」とか、甲子年に天令が改まる「甲子革令」の知識が導入され、制度や政策に影響を与えるようになります。後継者(太子)の決定、謀反・暗殺など謀略も陰陽五行の世界で行われたでしょう。

 

 華夏にあっては天子の居所を「都」と称し、「都」を中心とする方千里を「畿」と呼びます。「畿」こそが中原の國、すなわち狭義の「中國」です。中原、中國の概念は周の時代に形成されたため、周の王都が置かれた黄河中流域を指しました。

 

 狭義の中國=畿の外側を500里ごとに区切り、内側から「侯」「甸」「男」「采」「衛」「蛮」「夷」「鎮」「藩」と名付けます。これを「九服」もしくは「九畿」というのだそうです。「侯」より「甸」の方が「畿」から遠いため、天子の威徳が薄くなります。「臺」から4000里の外側が「蛮」「夷」、5000里離れた「藩」までが天子の威徳が届く限界というわけです。

 

 ちなみに、周の1里は約75mとされていますので、「畿」の方千里は75km四方、1服(1畿)は37.5kmです。天子の威徳が届く範囲が375km四方というのは、のちの中国の版図からするととても小さいのですが、周の時代の「國」とはそんな大きさ(面積)だったといえるでしょう。

 

 単純な比較はできませんが、参考までに現在の道路で計ると、福岡市から尾道市/出雲市まで、奈良市から広島市/沼津までが約370kmです。倭國にとってちょうどいいサイズ感です。

 

 「畿」から4000里の外側のは東夷、南蛮、西戎、北狄の「四夷」がいて、天子の威徳に順化すべきだと考えられました。天帝―天子―中國の直列こそが華夏の根本です。蛮夷の族が中國の天子に忠誠を誓うことを「化」と称し、「化」した蛮夷は天子の「藩屏」となることができ、中國に従わない蛮夷は「化外」と呼ばれ、征伐の対象となりました。

 

 九服/九畿の関連(九つながり)で「九州」も華夏の中華(中國)思想を反映しています。それは夏王朝の始祖である禹が中國を冀、兗、青、徐、揚、荊、予、梁、雍の九つの「州」(地域)に分けた言い伝えに由来します。倭讃は王城を筑紫に定め、やがて華夏の知識を得て「九州」の名を付けたのかもしれません。