『梁職貢圖』『梁書』における倭國、倭人の地理観
前節からの続き。
『梁職貢図』を模写した『王會圖』と『北宋模本残巻』の違いは、「残巻」が異族の使者ごとに、華夏王朝との来歴をまとめた説明文(題起)を添えている点です。その文章はおそらく、原本にあったものでしょう。ただし倭國、末國の記事は剥落のため、全体の解読はできません。
2011年のこと、清代の模写『諸番職貢圖巻』が発見され、そこに「倭國は南斉の建元に上表した」とあることが分かりました。『南斉書』「蛮東南夷伝」倭國条「建元元年(479)進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武號為鎮東大將軍」に照応しています。
『書紀』をもとに作成した歴代大王在位年表で、ワカタケル大王は479年に死去しています。その前年に倭王は「開府儀同三司」を自称して使者を送り、宋の順帝から「武王」の名乗りを許されました。タケルの諡がそれに由来しているのではないか、ということはすでに触れました。
『南斉書』は「倭武王が使者を送ってきた」とは書いていません。そこで、斉が宋に取って代わった祝賀のおこぼれとして、倭武の知らないところで称号を「鎮東大将軍」に進めたのだろう、というわけです。また、蕭帝室傍流の荊州蕭氏が「梁」を興した天監元年(502)、「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」(『梁書』武帝紀)とあるのも、同様の理由で叙爵したのだ、と考えられています。
しかし倭國は宋朝にしばしば使者を送っていますし、華夏王朝の吏僚は帝室の交代で総入替えになるわけではありませんから、周辺異族の情報は蓄積されていたはずです。また『梁書』が成立したのは唐の貞観三年(629)で、その21年前、隋の大業四年(608)に百済國から対馬海峡を渡って「俀國」(倭国)を訪問した裴世清が存命でした。
『晋書』『宋書』『南斉書』は倭國の地理的な位置を朝鮮半島から記述しています。原資料がどうだったにせよ、『梁書』を編纂した姚察、姚思廉の父子は正しい情報に修正しなければならなかったはずでした。そこで誤りが是正されていれば、『王會圖』の倭國使の肌は褐色にならなかったに違いありません。
にもかかわらず『梁書』「諸夷伝」倭國条は、冒頭で「倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里大抵在會稽之東相去絶遠」(倭は自ら太伯の後と云い、皆文身を俗す。帯方を去る一万二千余里、大抵会稽の東、去ること絶遠に在り)と語っています。『後漢書』の「其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近」(其の地大較会稽東冶の東、朱崖儋耳に相近し)を踏襲したのです。
これが何を意味しているかといえば、6世紀の蕭繹(梁・元帝)ばかりでなく、隋・唐の7世紀の宮廷知識人においても、「倭人は東南の夷族」の認識が強かったということです。6世紀から7世紀にかけて、華夏の宮廷知識人における「倭國」と「倭人」の認識に混乱ないし乖離が起こっているように思えます。
7世紀初頭の代表的な学識者が「倭人は東南の夷族」説を是認したのは、それなりの論拠があったということでしょう。倭國が「倭人の国」でなくなっていたからではないでしょうか。