軽皇子と衣通姫の比翼塚(松山市姫町)
倭王武の上表文にある「奄喪父兄」事件についてです。繰り返しになりますが、『書紀』の第16代オホササギ大王(仁徳)から第21代ワカタケル大王(大泊瀬幼武:雄略)までに、これに合致する記述はありません。
ヲアサヅマワクゴノスクネ(允恭)とアナホ(安康)の2代が相次いで死去する伝承が、「奄喪父兄」に対応するという指摘があるのですが、これはひょっとすると「逆立ち」の論かもしれません。『宋書』の「奄喪父兄」を知って、それを示唆する記事を『書紀』の編者が用意したとも思えるからです。「これがその事件の内幕です」でなく、読者が類推・推測するように記述するのは、『書紀』の常套手段といっていいのです。
二倍歴を適用した歴代大王の補正在位年表では、ヲアサヅマワクゴノスクネ(雄朝津間稚子宿禰:允恭)は西暦453年に、アナホ(穴穂:安康)は456年に亡くなったことになります。穴穂王は雄朝津間稚子宿禰が亡くなったあと、正統な後継者だったキナシノカル(木梨軽)王とオホササギ大王(仁徳)の王子であるオホクサカ(大草香)王を排除(殺害)して即位しますが、翌年、大草香王の子であるマユワ(眉輪)王に暗殺されたことになっています。
『書紀』や『古事記』では、エピソードとして木梨軽王と衣通姫の悲恋、中蒂姫をめぐる大草香王と穴穂王の確執が語られます。大草香王は穴穂王即位の前ですから453年に物部大前宿禰と、眉輪王は穴穂王暗殺の直後なので456年旧暦8月に坂合黒彦王、葛城圓大臣とともに滅ぼされます。さらに同年10月、次期大王の有力候補者である市邊押磐王を大泊瀬幼武王に謀殺されています。
王位継承をめぐって、有力豪族を巻き込んだ王族同士の暗殺・謀殺が続いたのでは高句麗征伐どころではなかったでしょう。ですが倭王武は「句驪無道 圖欲見呑 掠抄邊隷」の文脈の中で「奄喪父兄」を語っています。決して倭國・倭地内の権力闘争ではないのです。
ここで想起されるのは『三國史記』百済本紀における蓋鹵王の滅亡です。475年の旧暦9月の出来事で、『書紀』はワカタケル大王廿年冬条に「高麗王大發軍兵 伐盡百濟」と記しています。
倭王武の上表直前に、王や王妃、王族が高句麗に処刑される衝撃的な事件が起こっていました。同じことが庚子戦争で倭の王統に起こったのか、蓋鹵王処刑の事実をもとにして、高句麗の非道を強調する目的で倭王武が創作したのか、です。
上表文にある「亡孝(亡くなった父)」は倭王済です。その父兄とすれば讃と珍(彌)――『宋書』『梁書』は兄と弟ですが――ということになりますし、もしくは父が珍、兄は王に就くことなく死んだために王名が残らなかった後継者の王子です。
ここで再び想起するのは、影が薄い第17代イザホワケ(去來穗別:履中)とミズハワケ(瑞齒別:反正)の2代です。在位年表で去來穗別は426~430年、瑞齒別は430~433年で、この2代の在位の短さにも何かしら年紀を操作した作為が潜んでいるように思われます。「奄喪父兄」が王城の南遷・東征の引き金になった気がしてなりません。