(115)洛東江があるじゃないか | Around Seventy

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洛東江(Wikipedia)

 

人口規模がほぼ拮抗していたけれど、動員できる軍兵の数に倍以上の差があった――5万人対2万人というのは本稿の仮定で、推測・空想の域を出ませんが――のは、誤解を恐れずに言えば、騎馬民族と農耕民族の違いです。

 

騎馬民族は羊やヤギを群れで放牧して飼育します。馬に乗る者は家畜の群れを同じ方向、同じ目的地に導くため、同じチームのメンバーと緩く連携しながら、役割に応じてその場その場の判断で、臨機応変に動きます。狩猟の場合も同様で、追手と射手は一見すると不規則なようで、ちゃんと組織された動きをします。多くの獲物を得るという目的を共有しているのです。それが日常になっているのが特徴です。

 

これに対して農耕民族は、春と秋が集団行動・共同作業の季節です。春は田畑を耕し苗を植える。秋は果実や穀物を収穫し、加工・貯蔵する。植物が一斉に生育し一斉に結実するので、時期を逃せません。夏と冬は戸外、戸内はともあれ個々の作業なので、連携を確認する必要がありました。祭祀や家屋の補修を共同で行うのは農閑期だから、だけではありません。

 

軍事・戦闘にあって、前者は臨機応変の戦闘体勢を組める組織、後者は繰り返しの訓練で集団戦に臨む組織ということになります。前者は一騎当千、一騎駆けという文字通りの戦闘形態ですし、後者は歩兵、足軽の集団戦法です。

 

歩兵の集団戦は平原の総合戦には有効ですが、要塞攻撃には向いていません。要塞を取り囲む最前線の兵力が限られるからです。要塞の防壁を乗り越えるには、守備兵の3倍の兵力が必要とされています。

 

『三國史記』にしばしば見られるのは、籠城して防戦に努め、撤退していく敵を背後から襲うという戦法です。つまり要塞を攻めるとき、相手の援軍が到来しないなら、持久戦に持ち込むのが有効です。その場合、戦況を左右するのは食糧、武器の補充(兵站)にほかなりません。

5世紀の高・倭戦争を見ると、倭ないし倭国の軍兵は、それでも新羅國の王都を落としています。また、高句麗軍の到来を知るや、迅速に撤退しています。元亀元年(1570)、織田信長による朝倉攻めにおける金ヶ崎の退陣のように、撤退戦はたいへんな犠牲を伴います。高句麗軍の騎馬隊が放つ短弓の矢には破壊的な威力がありました。

 

なぜ倭ないし倭国の軍兵は城攻めに成功し、一気の撤退が可能だったのか――と考えたとき、目に入ったのは洛東江です。

 

全長525kmは南朝鮮最長、太白山脈に発し、慶尚北道・南道を流れ釜山で対馬海峡に注ぎ込みます。傾斜が緩い丘陵地帯を流れるため、古来から重要な交通路となっていました。

 

舟の往来が可能な川であれば、川津(湊)が設けられ、市が立っていました。倭人の出自が漁撈・交易の民であれば、栄山江とともに洛東江にも精通していたでしょう。

 

倭ないし倭国の軍兵は海と川を伝って船で新羅國王都を襲い、船で撤退したのです。

 

新羅・金城から「任那加羅」まで、現在の地名でいうと慶州から金海まで、高句麗軍が倭軍を追い詰めた隙に、安羅國の兵が金城を襲うことができたのも船があればこそでしょう。洛東江があるじゃないか、だったのです。