(おぼろげな感覚はいつも感じていましたが、他の感覚や理論がガッチリくっついていてとても自分と分割出来るようなものではありませんでした。)
今までの日記やCOENの中にもこの居場所がない理由を探す癖をベースに書かれたものがあるかもしれません。
ですが、それらの作品が癒しになるか弊害となるかは、その人によって変わります。
もっと言えば弊害に一時なったとしても、それは自分とは関係ないと言えるようになることは理論的?精神的な向上につながると思っています。
清濁併せ持っていたわけですが、また一つ成長させて頂きました。
自分の居場所がない理由は、探し続けて来たわけですが、それこそ23年近くずっとw、誰からも明確に自分が存在してはならない理由、納得する理由までは引き出せませんでした。
これは絶対的な価値観だから、そうか僕が要らない人間だということがよーく分かった。じゃあ死のう。
と言えるだけの理由は見つからずにここまで来てます。
(勿論検討不十分な理屈では死んだ方がマシだと思う事が多々ありましたが。)
ある種、存在理由、生存理由をかけてずっと思索を重ねて来たところがあって、、、
段々なに書いてるのかわかんなくなってきたw
結局、他人は僕の存在を完全に否定できるだけの明確な理由は持っておらず、
気分的な部分でしか否定することが出来ない。
勿論相手を尊重するのであれば、相手がいる理由と自分が相手を認識している理由を肯定していくしかなく。
肯定するような理由を見つけるには、気分的なものを認めるしかない。
気分的なものであれば、ネガティブに思考が判断したくなっても、そのネガティブさが相手との関係性においてはポジティブなものだったりする。
(相手や自分が良くなるために必要なもの=気分)
気分は、あり方を決めてコントロールする部分と、
流されるままにしてデトックスする部分とにわかれます。
まだなんかありそう。
取り敢えず気分が散歩日和なので、歩いて来ようと思います。
これは昨日の散歩中
