<『 人生の波の理論 』 で
生存の欲求を、生理の欲求へと変えた理由>
人間産まれてくる時って、家族の中にいるんです。
成長しても仲間がいたり、学校・会社とか組織に入ったり、そもそも現代は少なくとも国も中に住んでいる。
そのようなコミュニティ・コミュニケーションの中、つまり『 所属と愛 』が基本的にははじまりなんです。
『 生存 』という段階のものは基本的に家族集団を母体とした社会や地域など組織全体で対処しています。
集団の内部ではルールとか常識とかでの合意を基に生存の心配をクリアする。
集団を脅かす外部要因に関しては、集団の中から適性のある者や現場にいる者が対処しましょうという形でクリアしていく。
事件事故などのイレギュラーを除けば、人間においては『 生存 』は一個人の問題ではないのです。
ですから、社会性を欠いたような極端な個人主義に走ると個々の「 生存 」の危機が起きやすくなります。
公の精神というのは「 生存 」というレベルでは非常に重要な意味を持つのです。
集団というのは、正直僕は苦手なのですが「みんなで仲良く、いざという時は助け合う」程度には公の感覚はあった方がいい。
「生存の欲求」を言い変えてみると、「死にたくない」というのが近いと思います。
これは「死ぬ」という「想像しかできない未知のもの」への拒否反応とも言い変えられます。
じゃあ、これはイコール「生きたい」という願望なのか?と反対のことを考えてみるわけですが。
よくよくイメージしてみると「ただ生きていればいいのか?」という疑問にいきつくわけです。
するとたちまちの内に働きたいとか、休みたいとか、あれをして見たいとか、これだけは生きてるうちにやっておきたいとか、
いざ「生きる」となると多くの欲求が出てくると思うのです。
そもそも「生きるか・死ぬか」というレベルは「欲求」というものとは別のものなのではないかと感じています。
生きている以上死にたくないのは当たり前なのです。
どれだけ「死にたい」と思っている人でも、仮に今ここから望みが全てかなう人生を送る事が出来るようになったとなれば、真っ先に「死にたい」ということは考えなくなるでしょう。
例えいじめられていたとしても、なんでも望めるとなれば、復讐をしたいとか、やはり仲良くやりたいとか、誰もいないところに行きたいとか、少なからず心境の変化は起きてくるのが人の業というものではないでしょうか?
欲求は「生きていることを当たり前」として成り立ち、
「生きる」以上は欲求があるのが自然だということです。
「欲求」とは「生の基準」なのです。
ですので、ここに「生存」という「死の基準」を持ってくるのはどうしても筋が合わないんです。
基準が捻じれた理論であると言えます。
欲求を理論化するのであれば、
『社会のみんなで楽しく生きていくとしたら何がしたいのか』
を前提としたものでなければならないのではないかと、この『人生の波の理論』の発想に出会ってから思えるようになりました。
まぁ、なんか他にも思うことがあったような、、、?w
気がついたときにまた追記いたします~♪
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