おまえはもうすでに死んでいる
ダンナです。
実家で療養中のヨメですが、
運が悪いことに、タイミングが困ったことに、
11日の金曜日、親族の方がお亡くなりになりました。
それもがんで。
何と言っていいのか、適した言葉が見つかりません。
その方が、がんで闘病中というのはヨメも知っていたのですが、
自らも同じ病で闘病中のさなか、そのニュースを聞いた
彼女の受けた衝撃たるや、おそらく半端ないものであり。
もちろん、その方の死はその方の死で痛ましいものであるのは
確かなのですが、それでも思うのが、
なんでこんなときに、また。
なんでこんなに重ならないといけないのか、と。
私たちが知ることのない、ヨメの当事者としてのメンタルが、
それにどのような影響を受け、
私たちはどのような言葉をかければいいのか、
深くハラハラと悩みつつも、
それはそうとして、義父や義母は通夜やら告別式やら
現実的なことに容赦なく巻き込まれていって、
この週末はなんだか冗談のように複雑骨折じみた様相の中に
すぎさっていったのでした。
話は変わりますが、
「死とは●●●●である」とか「生とは●●●●なものである」とか、
なんか偉そうにわかったようなこと言う抽象論、概念の類の話が
個人的には嫌いなのですが、
しかし、ヨメが目下抱え込んでいるスピリチュアルペインというものが、
生きることの意味や、死ぬことの痛みを問うものだとしたら、
やはり、そういうところに向き合わざるをえないわけで。
生とは何か?
死とは何か?
足りない頭で、感じようとする試みが続いています。
「○○さんが死んだって聞いても……なんか実感わかんわい」
ヨメは彼の死に対して、そうつぶやきました。
ヨメが子供の頃から知っている方です。
私は一度ご挨拶しただけの関係だったけど、さっき死に顔を拝見して
線香をあげてきて、やはり同じように思いました。
死んでるなんて、思えない。
遺族の方たちと義父は、その方の思い出話を淡々と語っています。
横で遺体となって眠っているのがウソのように、
庭では初夏の花が鮮やかに咲き誇っていて、
どこか穏やかな土曜の午後の風景です。
「……なんか、まだ生きてるみたいだわい」
ヨメは、空を見てつぶやきました。
ふと、思いました。
彼は亡くなったけど、まだ生きているのかもしれないって。
肉体は死んだのかもしれないけど、死んだ感じがしない。
誰かのどこかで生きている――
そういう状態の方が相応しいことになっている。
それは逆に考えると、
私たちは、実はもうどこかが死んでいるのかもしれない。
こうしてピンピンして、生きてるように思えるかもしれないけれど、
実はもうどこかが、すでに死んでしまっているのかもしれない。
なんか、アブない系の感覚トークで申し訳ないです。
でも、そう思うとちょっとスッキリしたのです。
生とか死とか、簡単に白黒ハッキリ分かれるものじゃない。
死んでいてもまだ生きているし、
生きていても実はもう死んでいる――
そういうグレイでよくわからない世界に、
もしかして私たちは生きているのかもしれない。
そしたら、
なーんだ、ヨメも私も、みんな、実はもう死んでるんだったら、
いろんなこと、しゃあないじゃん!――などと開き直ってみたりとか。
そういう、生死に関する解釈ひとつで、
ひとまず今日を乗り越えることはできないもんかね?