がんフーフー日記 -74ページ目

おまえはもうすでに死んでいる

ダンナです。



実家で療養中のヨメですが、

運が悪いことに、タイミングが困ったことに、

11日の金曜日、親族の方がお亡くなりになりました。


それもがんで。




何と言っていいのか、適した言葉が見つかりません。



その方が、がんで闘病中というのはヨメも知っていたのですが、

自らも同じ病で闘病中のさなか、そのニュースを聞いた

彼女の受けた衝撃たるや、おそらく半端ないものであり。


もちろん、その方の死はその方の死で痛ましいものであるのは
確かなのですが、それでも思うのが、



なんでこんなときに、また。

なんでこんなに重ならないといけないのか、と。




私たちが知ることのない、ヨメの当事者としてのメンタルが、

それにどのような影響を受け、
私たちはどのような言葉をかければいいのか、

深くハラハラと悩みつつも、
それはそうとして、義父や義母は通夜やら告別式やら
現実的なことに容赦なく巻き込まれていって、
この週末はなんだか冗談のように複雑骨折じみた様相の中に

すぎさっていったのでした。





話は変わりますが、
「死とは●●●●である」とか「生とは●●●●なものである」とか、
なんか偉そうにわかったようなこと言う抽象論、概念の類の話が
個人的には嫌いなのですが、
しかし、ヨメが目下抱え込んでいるスピリチュアルペインというものが、
生きることの意味や、死ぬことの痛みを問うものだとしたら、
やはり、そういうところに向き合わざるをえないわけで。

生とは何か?
死とは何か?


足りない頭で、感じようとする試みが続いています。




「○○さんが死んだって聞いても……なんか実感わかんわい」


ヨメは彼の死に対して、そうつぶやきました。


ヨメが子供の頃から知っている方です。

私は一度ご挨拶しただけの関係だったけど、さっき死に顔を拝見して

線香をあげてきて、やはり同じように思いました。


死んでるなんて、思えない。


遺族の方たちと義父は、その方の思い出話を淡々と語っています。

横で遺体となって眠っているのがウソのように、

庭では初夏の花が鮮やかに咲き誇っていて、

どこか穏やかな土曜の午後の風景です。



「……なんか、まだ生きてるみたいだわい」


ヨメは、空を見てつぶやきました。


ふと、思いました。


彼は亡くなったけど、まだ生きているのかもしれないって。

肉体は死んだのかもしれないけど、死んだ感じがしない。

誰かのどこかで生きている――

そういう状態の方が相応しいことになっている。


それは逆に考えると、

私たちは、実はもうどこかが死んでいるのかもしれない。

こうしてピンピンして、生きてるように思えるかもしれないけれど、

実はもうどこかが、すでに死んでしまっているのかもしれない。



なんか、アブない系の感覚トークで申し訳ないです。


でも、そう思うとちょっとスッキリしたのです。



生とか死とか、簡単に白黒ハッキリ分かれるものじゃない。

死んでいてもまだ生きているし、

生きていても実はもう死んでいる――

そういうグレイでよくわからない世界に、

もしかして私たちは生きているのかもしれない。



そしたら、

なーんだ、ヨメも私も、みんな、実はもう死んでるんだったら、

いろんなこと、しゃあないじゃん!――などと開き直ってみたりとか。



そういう、生死に関する解釈ひとつで、
ひとまず今日を乗り越えることはできないもんかね?