プロレス今昔 「ベルト」

昭和の新日本が、猪木が作った猪木による猪木のためのプロレス団体であったのに対し、馬場が作った全日本プロレスは、プロレスの権威を守るために作られた格式高い団体であるといえる。

当時、最も権威のあったプロモーターの組合、NWAに所属し、その広いネットワークと信用をフルに使い、世界の強豪を、次々と日本に呼び寄せた。

その象徴となったのが、NWA、AWAのチャンピオンの招聘と、自身が管理するPWFヘビー、日本プロレスから連綿と受け継がれたNWAインターナショナル、UNヘビーのベルトである。

今では、NWAのベルトは、WWE世界ヘビー級ベルトに姿を変え、AWAは事実上消滅。

NWAインター、PWF、UNは、三冠王座とひとくくりにされ、権威もへったくれもなくなってしまった。

昭和全日本でのベルトの格付けは、NWA>AWA=NWAインター>UNといった感じで、PWFは、これらの枠とは離れた馬場の個人タイトルのような扱いだった。

新日本では、猪木ありきのマッチメークが組まれるのに対し、全日本では、ベルトを軸にしたマッチメークが組まれる。

ビッグマッチのメインとなるのは、数ヶ月に一度しか来日しないNWA、または、AWAチャンピオンによるタイトルマッチ。

それ以外は、NWAインターか、同タッグのタイトル戦が組まれる。

この場合、その時、ベルトを巻いているレスラーに挑戦するのが、常であり、そのシリーズの話題に上がっているレスラーが、チャレンジャーに選ばれることが多かった。

そのため、ハーリー・レイス対ミル・マスカラスやリック・フレアー対グレート・カブキ、輪島といった新日本では、考えられないようなマッチメークがしばしば組まれた。

さらに、チャンピオン・カーニバル、オープン・タッグ、最強タッグなどのリーグ戦でも、普通に、外人同士の優勝決定戦が組まれたり、団体のエースである馬場や鶴田ではなく、ブッチャー、ドリー、ブロディ、ハンセンといった外人勢が、平気で優勝するし、そればかりか、外人同士の決勝戦さえ存在するときもある。

これは、全米でトップを渡り歩いてきた馬場の価値観によるもので、一枚看板による団体運営の危険さを避けると同時に、プロモーターとして、団体を牽引するのは、あくまでも、ベルトを巻いているものだ、と、言うプロレス本来のあるべき姿を、運営に表した結果である。

その証拠に、当時、全日本に参戦していた長州には、NWAインターのシングルは、触ることすらできなかった(タイトル戦すら組まれなかった、と、いう意味)。

PWF、インター・タッグは、巻くことができても、全日の至宝は、巻けなかったのだ。

これは、人気があろうとも、実力は、うちのジャンボが上ですよ、という馬場の無言のアプローチに違いない。

馬場、鶴田、その後のポジションにいた天龍は、UNに取り付かれたレスラーだった。

鶴龍コンビとして、インタータッグは巻いていても、至宝のインターには届かない。

UNを守りながら、自分の地位を上げていくには、王座を統一するしかない。

これが、天龍革命の始まり。

インター=鶴田、PWF=ハンセン、UN=天龍。

ベルトの格付けが、巻いているレスラーの実力により、全部、横並びになった珍しい例である。

しかし、タイトル統一により、その後の世代は、なかなか、日の当たるところに出ることができなくなり、次第に、タイトルに絡むチャンスも減っていく。

かつて、ハンセンに挑戦した川田が、健闘むなしく、ピンフォール負けを喫した。

立ち去り際、ハンセンは、川田の肩に、UNのベルトをかけていった。

「世が世なら、お前も、このベルトを巻いていただろう、残念だ」

 という思いがこめられたハンセンらしいエピソードである。

 

 ベルトを巻いているレスラーこそが、団体の中心にならなくてはならない。

 それが、本来のプロレス団体のあるべき姿勢なのだ。