一九九〇年二月十日 東京ドーム
「時は来た!」「やる前に負けること考える馬鹿いるかよ!」
一九八九年 スポーツ平和党を結成し、参議院議員として、政治の世界に活躍の場を移した猪木は、政治家との二足のわらじを履きながら、ビックマッチ限定で、レスラーとしての活動を続けていた。
前述の東京ドーム大会では、坂口征二との黄金コンビを復活させ、闘魂三銃士の橋本と蝶野、いわゆる『孫世代』の挑戦を受けることとなった。
その後、イノキ・ファイナルカウントダウンと銘打たれ、引退に向けて、『現役レスラー』としての活動の幅を狭めていくわけである。
結果的に、ドン・フライとの戦いが、イノキの引退試合になるわけであるが、実質的な引退試合は、北朝鮮で行われたフレアー戦だと、私は思う。
そして、この東京ドームで行われたタッグマッチは、現役生活の節目に当たる試合であり、この試合を境に、猪木の姿は、次第に、新日本から消えていく。
最近、古いビデオをDVDに編集しているが、なかなか、興味深い映像が残っていた。
例えば、クラッシャー・バンバン・ビガロの初来日のときであるが、マネージャーのラリー・シャープが、マイクを取り、アピールを繰り返している。
「猪木!ビガロの挑戦を受けろ!お前の長いあごを粉々に砕いてやるぜ!」
例えば、ビックバン・ベイダー。
もともとは、TPG(たけしプロレス軍団)から送られた猪木つぶしの刺客として、新日本にぶっきん議されたレスラーである。
数々の名勝負を繰り広げたマサ斉藤も、猪木相手に、巌流島で、ノ-・ピープルマッチを行っている。
思い返せば、タイガー・ジェット・シンも、スタン・ハンセンも、ハルク・ホーガンも、異種格闘技戦の相手も、ストロング・マシン、さらには、ジャイアント・グスタフでさえも、ターゲットにあげるのは、「アントニオ猪木」なのだ。
ハンセンの例を挙げれば、七十七年から移籍する八十一年までの五年間、猪木と因縁試合を続けていった。
それでも、手を変え品を変え、さまざまなドラマを生み出していった。
例えば、「藤波!お前を倒してやる!」と、名乗りを上げたのは、剛竜馬くらいのものではないか?
長州が、藤波に噛み付いたのは、あくまでも、新日本内の下克上であり、猪木の首をつけ狙う諸々のレスラーとは、意味合いが違う。
その長州ですら、最終目的を猪木に切り替え、ジャパン分裂で出戻った後、猪木をフォールして、現場監督の座を、任されている。
1990年以降、外人、日本人の別なく、『××、俺の挑戦を受けろ!』というような『因縁』『遺恨』をメインに据えたストーリー・ラインが作られなくなった。
その代わり、『IWGP』や『G1』といった「タイトル争い」に、戦いの焦点が移り、ビックマッチのカードに合わせたストーリーが展開される。
平成維震軍、ブロンド・アウトローズ、狼軍団、nWo、T2000、CTU・・・。
こういった軍団も、明確な正規軍のトップの「誰」を、ターゲットに据えることもなく、正規軍に敵対する軍団として、存在するだけで、最終目的が何なのか、わけもわからず、とりあえず、『抗争』を続けている。
極端な話だが、ジャイアント・バーナードあたりが、今はなき、プロレス・スーパースター列伝ばりに「タナハシ!シット(ちくしょう)!奴は、いつになったら、俺の挑戦を受けやがる!」みたいなアピールがあってもいいようなものだが、実のところは、前座で、ライガーとタッグを組んで、「良い人!バーナード!」みたいな位置にいるわけだから、因縁も遺恨もおこるわけがない。
あえて、言うなら、数年前、健介ばかりをかわいがる長州に対して、見えないところで橋本や武藤が噛み付いたくらいで、そういう遺恨も、リングの上には、反映されず、結局、離脱、移籍が相次ぎ、新日本が弱体化していったガチ・バトルが、繰り広げられたくらいである。
天龍ではないが、コップの中の嵐のようなものだ。
今後、新日本に限らず、プロレスを盛り上げていくには、何が、必要なのか、関係者に限らず、考えていく必要がある。