昭和五十九年の秋。
彼は、唐突にやってきました。
アノ・アティサノエ。
『あの小錦の兄が、猪木に挑戦してきた!』
あまりにも、唐突すぎるこの異種格闘技戦の実現には、様々なドラマが見え隠れしています。
今回のブログを書くに辺り、改めて、猪木対アティサノエ戦を見直してみました。
前評判は、『椰子の実を素手で握りつぶす握力の持ち主』で、『体を密着させず、手と足の力だけで、椰子の木をのぼる』体力があり、ガッツ石松に弟子入りし、ボクシングのトレーニングを受けている『格闘家』である…、と。
これに、『小錦の兄』という付加価値がつくと、『とんでもない怪物』じゃないか?と、思わせるのに十分では無いでしょうか?
しかしながら、リングに上ったアティサノエの試合は、まことに、お粗末なものでした。
その理由は、どこにあるのか。
この時点で、アティサノエは、『早すぎた逸材』だったのでは、無いでしょうか。
試合を見直して、分かったことが一つあります。
アティサノエは、明らかに、プロレスのトレーニングを受けていました。
例えば、プロレス流のロックアップ。
例えば、プロレス流のボディスラム。
試合の合間で繰り出すクロー攻撃とヘッドバット。
『異種格闘技戦』と銘打たれたにもかかわらず、この試合は、『プロレス』だったのです。
ちなみに、アティサノエ自体の身体能力は、決して悪くはありません。
ポリネシア系独特の打たれ強さと足腰の強靱さは、トップレスラーになるための素質があると言えます。
何より、驚いたのは、付け焼き刃でありながら、左ジャブを形にしていた格闘センス。
血筋でしょうか、飲み込みは早いようです。
きちんとトレーナーについて、プロレスのコーチを受けたなら、かなり、いい位置にいけたのではないでしょうか。
アティサノエの不幸は、デビュー戦が、猪木の格闘技戦だと言うことに尽きると思います。
ジョン・テンタのように、最初から、新弟子としてトレーニングを受けていたら、ヨコヅナになっていたのは、コキーナではなく、アティサノエだったかも知れません。
しかしながら、新日サイドとしては、この『異種格闘技戦』を、早めなければならない訳があった…のではないか、と、私は推察しています。
アティサノエ戦が行われたのは、84年の秋。
その数か月前には、新日本内部でクーデター勃発、UWF旗揚げ、第二回IWGP決勝での暴動。
新日本は、かなり、追い込まれて来ていました。
しかし、さらに、追い討ちをかける出来ごとが…。
アティサノエ戦の翌日、長州率いる維新軍団が、新日本離脱し、ジャパンプロレスを旗揚げし、大量離脱が起きました。
つまり、アティサノエ戦前後は、会社内でかなりごたごたがあり、マッチメークもままならない状況だったのではないでしょうか?
猪木は、維新軍団無き後の試合展開を考えた結果、『ストロングスタイル(異種格闘技戦)』に、光明を見出だそうとしていたのではないのか?
初代タイガー、前田日明、長州力のいないリングは、まさに、旗揚げの頃の新日本プロレスそのもの。
新しい外人を発掘し、好敵手に育て上げる。
猪木プロレスの常套手段ではないだろうか。
そう考えると、あの不出来な異種格闘技戦の強行も頷けるような気がします。
アティサノエは、坂口と組んで、ハワイアン・タッグ・チャンピオンになっていましたが、それほど時間も経たないうちに、フェードアウト。
新人ながら、若手でもなく、それでいて、メインイベンターでもない、中途半端な立場が、アティサノエを生かし切れなかった理由なのかもしれません。
PRIDEにサモア系の外人を送る話もあり、その窓口になっていましたが、そちらも自然消滅。
最後に、その名前が出たのは、早すぎる死亡通知でした。
51歳の若さで、旅立ちました。
もし、一人の新弟子として入門していたら、アティサノエは、コキーナ、サモアンと、ともに、WWEやWCWに進出……していたかも、しれません。

彼は、唐突にやってきました。
アノ・アティサノエ。
『あの小錦の兄が、猪木に挑戦してきた!』
あまりにも、唐突すぎるこの異種格闘技戦の実現には、様々なドラマが見え隠れしています。
今回のブログを書くに辺り、改めて、猪木対アティサノエ戦を見直してみました。
前評判は、『椰子の実を素手で握りつぶす握力の持ち主』で、『体を密着させず、手と足の力だけで、椰子の木をのぼる』体力があり、ガッツ石松に弟子入りし、ボクシングのトレーニングを受けている『格闘家』である…、と。
これに、『小錦の兄』という付加価値がつくと、『とんでもない怪物』じゃないか?と、思わせるのに十分では無いでしょうか?
しかしながら、リングに上ったアティサノエの試合は、まことに、お粗末なものでした。
その理由は、どこにあるのか。
この時点で、アティサノエは、『早すぎた逸材』だったのでは、無いでしょうか。
試合を見直して、分かったことが一つあります。
アティサノエは、明らかに、プロレスのトレーニングを受けていました。
例えば、プロレス流のロックアップ。
例えば、プロレス流のボディスラム。
試合の合間で繰り出すクロー攻撃とヘッドバット。
『異種格闘技戦』と銘打たれたにもかかわらず、この試合は、『プロレス』だったのです。
ちなみに、アティサノエ自体の身体能力は、決して悪くはありません。
ポリネシア系独特の打たれ強さと足腰の強靱さは、トップレスラーになるための素質があると言えます。
何より、驚いたのは、付け焼き刃でありながら、左ジャブを形にしていた格闘センス。
血筋でしょうか、飲み込みは早いようです。
きちんとトレーナーについて、プロレスのコーチを受けたなら、かなり、いい位置にいけたのではないでしょうか。
アティサノエの不幸は、デビュー戦が、猪木の格闘技戦だと言うことに尽きると思います。
ジョン・テンタのように、最初から、新弟子としてトレーニングを受けていたら、ヨコヅナになっていたのは、コキーナではなく、アティサノエだったかも知れません。
しかしながら、新日サイドとしては、この『異種格闘技戦』を、早めなければならない訳があった…のではないか、と、私は推察しています。
アティサノエ戦が行われたのは、84年の秋。
その数か月前には、新日本内部でクーデター勃発、UWF旗揚げ、第二回IWGP決勝での暴動。
新日本は、かなり、追い込まれて来ていました。
しかし、さらに、追い討ちをかける出来ごとが…。
アティサノエ戦の翌日、長州率いる維新軍団が、新日本離脱し、ジャパンプロレスを旗揚げし、大量離脱が起きました。
つまり、アティサノエ戦前後は、会社内でかなりごたごたがあり、マッチメークもままならない状況だったのではないでしょうか?
猪木は、維新軍団無き後の試合展開を考えた結果、『ストロングスタイル(異種格闘技戦)』に、光明を見出だそうとしていたのではないのか?
初代タイガー、前田日明、長州力のいないリングは、まさに、旗揚げの頃の新日本プロレスそのもの。
新しい外人を発掘し、好敵手に育て上げる。
猪木プロレスの常套手段ではないだろうか。
そう考えると、あの不出来な異種格闘技戦の強行も頷けるような気がします。
アティサノエは、坂口と組んで、ハワイアン・タッグ・チャンピオンになっていましたが、それほど時間も経たないうちに、フェードアウト。
新人ながら、若手でもなく、それでいて、メインイベンターでもない、中途半端な立場が、アティサノエを生かし切れなかった理由なのかもしれません。
PRIDEにサモア系の外人を送る話もあり、その窓口になっていましたが、そちらも自然消滅。
最後に、その名前が出たのは、早すぎる死亡通知でした。
51歳の若さで、旅立ちました。
もし、一人の新弟子として入門していたら、アティサノエは、コキーナ、サモアンと、ともに、WWEやWCWに進出……していたかも、しれません。
