まず、先に謝罪をしておかねばなりません。
今回の記事は、主観的過ぎて、本来、人様に見せるものではないかもしれません。
しかしながら、曲がりなりにも、リングにたつものとして、どうしても、今回は、形として残しておかねばならないと痛烈に感じたからです。
ワタクシごとき、ぺーぺーの『自称』プロレスラー『もどき』が、えらそうな物言いをして、本当に、申し訳ないと思っています。
プロレスとは、何ぞや、と聞かれたとき、『プロレスとは、筋書きのないドラマである』という答えを聞いたことがある人は多いと思います。
高橋本の影響か、最近のプロレス・ファンは、『ブック』『アングル』『ケーフェイ』などの、隠語を口に出す方も多いようです。
しかし、どんなに、作られたものであっても、そこに、『説得力』と『真実味』さえあれば、私たちは、そんな取り決めごとを、まったく気にすることなく、純粋に、感動を得ることができるのです。
それは、大男の理屈抜きのぶつかりあいだったり、磨き上げられた熟練のテクニックだったり、思いもつかないような大技だったり。
それだけでは、ありません。
リングの内外で、見え隠れする人間ドラマ、負けて涙する姿だったり、耐え切れずはき出したマイク・アピールだったり、感情むき出しで、ののしりあう姿だったり。
そこに喜怒哀楽が付きまとい、一喜一憂する姿に、感情移入ができたとき、はじめて、そこに感動が生まれるのではないでしょうか?
さて、これだけインターネットが普及すると、すさまじい勢いで情報が飛び込んできます。
私のようなプロレス馬鹿は、『プロレス』と名がついた時点で、「あれもこれもそれもどれも」見たくなってしまい、最終的に、「少しはまじめに稼げや、コルァアア!」と、自分で自分をしかりつけるような状況に、陥ってしまうわけです。
そんな中、前日の「アンドレ対マードック」見たいな試合とであったときは、まさに、感謝と感動に、身を打ち震わせるわけです。
その反面、当然、色々な試合を見るということは、色々な結果と出くわすこともあるわけです。
私が、その画像とであったのは、先輩レスラーからの『すごい画像があるぞ!』と、連絡をいただいたからです。
普段、自分と同じ立場の方の試合を拝見する機会が、少なかったので、急いで、その画像を拝見させていただきました。
私が、その試合を見て、本当に、すごいと思いました。
そこに展開されるのは、すさまじい技の応酬でした。
十人十色、百人いれば百通りの見方があるのが、プロレスだと思います。
それを承知で、あえて、こだわろうと思うのですが、
「その技は、なぜ、出したのですか?」
と、聞いてみたい、ぜひ、聞いてみたい。
かつて、スタン・ハンセンとシングルマッチをしたレスラーは、ほとんどが、『左腕』を攻めました。
び゙こーず、それは、なぜならば、『ハンセンの得意技は、『ラリアート』だからです。
「左腕を攻め続ける」→「ラリアートが使えなくなる」→「ハンセンに勝てる」
大概は、ラリアット一発で、逆転負けしてしまいますが。
かつて、フレアーと試合したものは、足殺しの洗礼を受けます。
なぜ?
フレアーのフィニッシュ・ホールドが、足4の字固めだから。
それはもう、徹底的に痛めつけ、痛めつけ、さらに、痛めつけ、そして、待ってましたの「足4の字固め」を出すから、ギブアップが取れるわけです。
雪崩式フランケンシュタイナーや奈落式喉輪おとしは言うまでもなく、フィンガー・ロックやロックアップ、ハンマースルーやヘッドロックにいたるまで、すべての技には、それを出す『必要性』がなくてはならない。
その必要性の組み合わせこそが、「試合運び」につながっていくのではないでしょうか?
その昔、輪島大士が、プロレス転向したとき、大きな話題になりました。
デビュー戦のタイガー・ジェット・シン戦は、技の未熟さを気迫で補った好勝負だったと思います。
しかし、その後の試合では、どうにも、ぱっとしません。
当時、輪島の会得している技は、「相撲タックル」「レックロッグ」「エルボードロップ」「掬い投げ」「スリーパー」「スピニング・トゥー・ホールド」といった基本技と必殺技の「ゴールデン・アームボンバー」「二段式首折ギロチンドロップ」でした。
試合解説の馬場さんが、いつも口をすっぱくしていっていました。
「輪島の攻めには、一貫性がない。腕なら腕、足なら足を攻め続けなきゃならん。さっき、腕を攻めたかと思うと、今度は足を攻める。自分の得意技につなげるような試合運びを覚えていかなきゃならん」
レッグロックやトゥーホールドで、足をせめても、フィニッシュのゴールデン・アームボンバーにつながらない、それゆえ、別な試合の流れを作らなければ、大成しない、という馬場さんのアドバイスでしたが、残念ながら、輪島には届かなかったようです。
それゆえ、レスラーは、「なぜ、今のタイミングで、その技を出すのか?」を、念頭に入れて、試合をするべきではないのではないか、と、思っています。
垂直落下、雪崩式、奈落式、トップロープの上から、金網の上から、柱の上から、とにかく、危険な角度でおとせばいいのか、高いところからとべばいいのか、くるくる回ればいいのか。
その結果、「驚き」は生まれるだろうけど、「感動」は生まれるのか・・・。
単純に、「自分がやってみたい技を仕掛けてみた」で、どこに説得力があるのか。
「プロレスのための技」ではなく、「技のためのプロレス」に、先はあるのか、そういうことを考えてながら、映像を見ていました。
良かろう、悪かろうという問題ではない、それは、すべて、好みの問題だから、誰が、どんな試合をしようが、本人の自由だと思います。
しかし、たとえ、お足をいただいていなくとも、そこに、お客様を招き入れて、時間を共有するわけであるわけですから、できることなら、ともに感動を分かち合いたい。
そのためには、やはり、自分の好みとお客様のニーズのちょうど中間地点に、歩み寄れるようなプロレスをしていきたいと思った次第です。
これだけの大風呂敷を広げてしまった以上、内外問わず、言ったことに責任を取らなきゃいけないわけで。
日々、これ勉強の毎日です。