坂部恵奈さんは元看護師。現在はプロの二胡奏者としてご活躍中です。

 

これは、がん克服の体験談ではなく、魂の体験談です。

 

(2023年7月対面取材+8月オンライン追加取材)

 

 

 



【病歴概略】

2004年3月:(29歳)子宮に巨大な筋腫(後に誤診と判明)。リウマチ発症。
      市民病院で子宮筋腫核摘出手術。
同4月:不妊治療スタート。
同10月:リウマチ治療スタート。

2006年4月:リウマチの新薬が奏功し歩けるようになる。
同12月:不妊治療で転院した個人病院で子宮の巨大腫瘍(16cm)が判明。

2007年3月:紹介された埼玉の国立病院で子宮内膜間質肉腫と診断される。
部分切除。
同5月:愛知県がんセンターで拡大子宮全摘術・両側付属器摘出術。腹膜播種、腸漿膜転移、漿膜剥離。ホルモン治療スタート。

 

 

*坂部恵奈さんの公式サイト

 

 

 

 


◆人生最大の夢は「お母さんになること」だった◆

小澤
取材に応じていただきありがとうございます。どうぞ宜しくお願いします。

坂部さん
こちらこそ宜しくお願いします。

小澤
希少がんである子宮内膜間質肉腫、しかも腹膜播種があった。最後の3回目の手術から16年経過されていますが、29歳で子宮のがんを知らされたときはどんな心境でしたか?

坂部さん
私の子どもの頃からの夢は「お母さん」になることでした。子供にたっぷり愛情を注ぎ明るい家庭を築くのを心底楽しみにしていました。ところが、結婚直前の幸せの絶頂にがんが見つかりました。婚約者も子ども好きで、我が子の誕生を切望していました。ですから子宮に腫瘍があることを知ったときは、婚約者と別れるかどうか悩みました。

小澤
人生で最も望んでいた夢が叶う寸前だったのですね。

坂部さん
実は当初、主治医からは子宮筋腫と告げられていました。そして、筋腫を摘出した後すぐに積極的不妊治療に踏み切りましょう。子宮を支える頸部を切除するので、妊娠した後は絶対安静です。筋腫摘出後すぐに不妊治療に入るので入籍しておくことが必要です、と伝えらました。婚約者とは、その治療法に夢を託し、結婚に踏み切りました。

小澤
筋腫は誤診だった?

坂部さん
はい。子宮筋腫として腫瘍を摘出し不妊治療を始めたものの、当初説明のあった積極的治療に全く移行せず、それに対する説明も曖昧で、徐々に不信感を抱くようになっていきました。ほぼ同時期に発症したリウマチが進行して動くこともままならなくなり、いったん不妊治療は中断しました。その後、リウマチの新薬が効いて歩けるようになったので、評判のよい個人病院で不妊治療を再開しようと受診したところ、大きな腫瘍の存在が明らかになりました。確定診断はついていませんでしたが、おそらく悪性だろうという見立てで子宮をすぐに摘出することを勧められました。

小澤
そのショックたるもの・・・

坂部さん
子宮摘出・・・その瞬間からの記憶はありません。診察室をどう出たかも、どうやって家に帰ったかも覚えていない。家の近くで事故に遭いそうになって意識を取り戻した有り様でした。

小澤
茫然自失。

坂部さん
2年でこれだけ大きくなるのは悪性の可能性が高い。しかし私自身は到底そんなこと受け入れられません。上手に腫瘍だけ取り除いてくれれば・・・という思いでした。何としても子どもが欲しかったので手術をするにしても子宮温存を希望しました。そこで紹介されたのが埼玉の病院だったのです。

小澤
お母さんになる夢は捨てきれない。

坂部さん
子どもが持てないなら死んでもいいと思いました。子宮温存で出産するか、死ぬかの二択しか考えられない精神状態でした。ところが埼玉で肉腫と診断され子宮を摘出するしかないという状況に追い込まれた。子どもを産めなくなってまで生きたいと思っていないのに、生きるために子どもを産めなくなる。生きることに価値を見いだせなくなり、この頃の私は廃人と化していました。

小澤
埼玉では部分切除を受けられたのですね。

坂部さん
看護師キャリアのある者として、肉腫であれば命の危機に直結していることは認識していました。全摘しかない。主治医には、温存を強く望んでいるが、万が一術中に肉腫と分ったら全摘してくださいとお願いしていました。ところが手術に付き添った家族は筋腫、がん、肉腫のちがいを理解していなかったので、家族が私の代理としての判断ができなかったこともあり、部分切除で閉じられてしまいました。その後主治医からは急いで全摘術を受けるよう促されました。

小澤
でも、心の状態が・・・あらためて全摘術を受けようという気になりました?

坂部さん
個人病院に戻ったものの私があまりに虚ろだったからでしょう、心情を慮って受精卵凍結を提案してくれました。一縷の望みを繋ぐことで、全摘術に向かわせたかったのだと思います。地元で手術するなら愛知県がんセンターでと、手続きも進めてくださいました。

小澤
子宮摘出後はホルモン治療でフォローされたのですね。

坂部さん
私の肉腫はエストロゲンで増殖、プロゲステロンで抑制なのでプロゲステロンの内服と副作用の血栓予防にバイアスピリンを服用しました。7~8年は飲んだと思います。

 

 

 

 



◆怒りのエネルギーが二胡に引き合わせた◆

小澤
お子さんを持つことが叶わなくなったのに自分だけは生きている。先ほども廃人同然だとおっしゃっていましたが、どうやってそこから抜け出したのですか?

坂部さん
一つには、ある本との出会いがありました。リウマチが酷くて死にたいと思っていた頃に、『夜と霧』(V・E・フランクル みすず書房)に出会いました。アウシュビッツの過酷な捕虜収容所に収容されながらも“心は自由なんだ”と書かれていました。ほとんどの人が恐怖と緊張のなかで心、感情を失っていく。隣で仲間が殺されても、何も感じない。そんな状況下であっても、一部の人は夢や希望を失わずに心を保って生きた。ある上流階級の女性は明日ガス室に送られると分っていながら、この経験の意義に感謝の気持ちを持っていた。

埼玉で肉腫の診断が確定した後は、「心ここにあらず」でした。何もかもがもうどうでもよくて、感情が何にも全く動かない状態になっていました。『夜と霧』に書いてあった感情鈍麻の状態で子宮摘出までの1ヶ月を過ごしました。

しかしこの本で学んだ「意識だけは自由なんだ。自分の心は自分で選択できて、人間の尊厳は自分の意志で決まるのだ」という記述を思い出してもいました。

小澤
『夜と霧』・・・僕も人生観が変わった一冊です。

坂部さん
それが二胡にも繋がったのです。

小澤
というと?

坂部さん
リウマチで全身の関節痛に苛まれ、トイレにも床を這っていくしかない状態でした。もはや人間としての尊厳がない。もともと自己肯定感が低かったのに、追い撃ちをかけるように自分の身の回りのことができない、ご飯は食べれない、髪は洗えないとなって、自尊心は完全に失われていました。旦那さんも、夢見ていた新婚生活とはまるで違う結婚生活に、いつもイライラしていました。当時は旦那さんも、精神的に追い詰められていたのだと思います。私は、自分が庭のカメムシの如く厄介者で、生きていても死んでいても誰も見向きもしない。存在自体が迷惑と感じていました。

そんな精神状態の私に母から電話がかかってきました。物心ついた頃から私に厳しかった母ですが、やはり親なので助けてくれるのではないかと期待を込めて泣き言を吐露しました。すると、「また、あんたはそんなメソメソして!リウマチって怠け病っていうよね。そんなふうにグズグズしてたら旦那さんにも嫌われて捨てられるわ!」と言われました。

小澤
えー! 

坂部さん
猛烈に腹が立ちました。言葉は悪いですが、殺意を抱くほど怒りに打ち震えました。

小澤
極限状態から助けを求めているのに、手を差し伸べるどころか、谷底に突き落とすような仕打ちですね。

坂部さん
でもその凄まじい怒りが自分の中でエネルギーになったようです。ネガティブな感情が積もり積もったところに、実の母親からとどめの一撃を食らわされて沸点に達しました。なんでここまで言われなきゃならないんだ!

小澤
なるほど! 怒りがエネルギーに点火させた! 怒りのエネルギーってパワーありますよね。ある心理療法家に教えてもらいました。「17の意識レベル」(D・R・ホーキンズ博士の研究)で下位の「無気力」「罪悪感」「恥」のレベルにいる人を上位の「平和」「愛」「悦び」に上げる際に、いったん11番目の「怒り」を経由させる方法があると。

坂部さん
点火した怒りのエネルギーは、まず外(母)に向かいました。でも母に向けても変わらないことはわかっていました。そこで「私はいったい何がしたいのだろう?」と考えました。怒りのエネルギーを、自分が心から晴れやかになれることを探すことに転化しました。

小澤
怒りのエネルギーを自分が明るくなれるエネルギーに転化した。よいエネルギーの使い方ですね。

坂部さん
今の私の体でやれることを探しましたが、何も見つからなかった。リウマチの痛みでお箸を持つのさえやっとだった。1ヶ月くらい探して色々なものにトライするも何もできない。そんなある日、たまたまネットで二胡のレッスン動画を見ました。この楽器は椅子に座って腿に置いて弾ける。

小澤
そういえば、重力に逆わらず演奏していますね。

坂部さん
なんだ?!これは?!と思いました。子どもの頃、ピアノやクラリネットをやっていたので本格的な楽器に興味がありました。それでネットで見た岡崎市の教室にレッスンの見学に行きました。先生に「リウマチで手の動きが不自由なのですが、私にも弾けるでしょうか?」と相談したら、「できるように教えるのが先生の役目ですから」と言ってくださいました。その時は、正直二胡の音色に心は動かなかったのですが、先生のそのお言葉と、レッスンを見学させてくれた方の励ましでやってみることにしました。

小澤
そういう経緯でしたか。坂部さんが怒りのエネルギーを使って行動した結果、そのときの坂部さんにとってよい環境に巡り会えたのですね。

坂部さん
先生とお友達のおかげで一歩を踏み出せました。二胡がいいなと思ったのは半年後、先生のコンサートに行って初めて素敵な音色だと感激しました。(笑)

小澤
今では引っ張りだこの二胡奏者ですよね。

坂部さん
子どもが産めなくなった代わりに、二胡を与えられたのかなと思います。なので、二胡を弾くために体を良くしようとしました。二胡の先生には、「坂部さんの二胡にかける情熱には感銘を受けた。生きるエネルギーがすごい」と言われました。

小澤
二胡が坂部さんの生命力を再起動させてくれたのですね。でもその導線に点火したのは、お母さんか。

 

 

 

 

 


◆母との関係性◆

小澤
現在の坂部さんは二胡奏者としてご活躍ですが、元々は看護師さんとお聞きしました。どのような動機で看護師を目指されたのですか?

坂部さん
中学2年生のときでした。私は前の座席の男の子ことが好きだったのですが、その子が授業中になぜか指から出血して止まらないと、私の方に振り向いて告げたのです。

学研の学習マンガで覚えていた止血の方法を教えたら、すぐ止まりました。彼はもの凄く喜んでくれました。その体験から、将来、自分の家族を自分の手で守るには医学的知識が必要だと思ったのです。

当時から、それくらい家庭を持ちたい気持ち、そして子供や夫の命を守る気持ちが強かったです。

小澤
お子さんを持ち、明るい家庭を最大の幸福とお考えだったから家族・家庭を守る意識が強かったのかもしれませんね。それは、坂部さんの養育環境と関係があるのでしょうか?

坂部さん
はっきりした理由はわかりませんが、その意識は自然に備わっていたように思います。ただ、母との関係性は悪かったです。

小澤
先ほど伺ったエピソードは衝撃的でした。

坂部さん
母からは「あなたなんか可愛くない。生まなければよかった」「あのとき堕ろしていればよかった」と幾度か言われたのをよく覚えています。

小澤
どうして我が子にそんな言葉を発してしまうのでしょうか。

坂部さん
母と祖母はしばしば人の噂話で盛り上がっていました。二人ともその時は意見が合い、意気投合してイキイキしている。そして私にも同意を求めてきました。しかし、聞きようによっては悪口とも取れる2人の話に、私は同調するのがとても嫌でした。私が違う意見を伝えると母が前述のような言葉を浴びせてくるのです。

小澤
悪口を言うことで自分を保っている部分があったのでしょうか?

坂部さん
母と祖母にとって、話のネタは何でも良かったのだと思います。ただ、人のことをあれこれ言うことで意見が一層合って気持ちよくなって、母娘2人の結束を固めていたのでしょう。言ってみれば、母娘だけの愛や絆のコミュニケーションだったのかもしれません。母が亡くなってから、母が私に同意を求めてきたのは、娘と盛り上がって話がしたかった、母なりの私への愛情表現だったのかもしれない、と思いました。しかし子どもの頃は、当然そんな解釈はできないので、「人の悪い噂話や、私に酷いことを言う母のことは嫌い」と、どんどん母を嫌いになっていきました。母は、「自分に同調しない娘、言うことを聞かない娘」と、私のことが可愛くなく思えたのでしょう。負の連鎖でした。

小澤
自分を産んでこの世に存在させてくれた人が、自分の存在を否定する言葉を発する。それは深い傷になりますよね。

坂部さん
物心ついた頃から「死にたい」感覚を持っていました。自分の感情を発散できるのが、唯一ピアノでした。鍵盤に感情を叩きつけることが私の自己表現でした。それすらも母からは「うるさい!」と、時に叩かれもしました。後に知ったのですが、ピアノの先生がこの子(恵奈さん)には音楽の才能があるから真剣にピアノをやらせたほうがいいと母に進言したにもかかわらず、母は私には伝えずピアノの練習をさせてくれなかったのです。

後に二胡を弾くようになって、二胡の先生から「あなたには才能がある、中国に行って真剣に二胡をやった方が良い」と言われたことを母に話したら、「ピアノの先生もそう言っていた」と何もなかったようにしれっと告白しました。(笑) 母がちがう母だったら、きっと私の人生もちがうものだったでしょう。あの母だったから、医療の道に進むことになったのだと思います。

小澤
ピアノの道を断たれたことで、中学時代の出来事・・・止血の知識が役立った・・・と相まって医療の道への後押しになったのかな。

坂部さん
そのおかげで多くの患者さんと接し、生きる場面、死を迎える場面に立ち会わせていただきました。ICUに勤務したあと、心臓血管外科で働き、自分のこの手で行った心臓マッサージで何人もの患者さんの命を救うことができました。人生は本当に先が分からず、面白いものですね。

小澤
坂部さんはLifesavorですね。命を守りたい想いが強いのですね。

坂部さん
でもその強い想いが、私のがんと関わっているという心当たりがあるのです。

小澤
心当たり?

坂部さん
24歳の時に「病気になりたい」と真剣に願ったことを思い出しました。担当した末期の肺がん患者さんとの関わりのなかで心底そう願うような出来事がありました。

その方はずっと伏せられていましたが、ある病院の看護部長だと告白されたのです。「60歳過ぎるまで独身でずっと看護の道に身を捧げ、がん患者さんにも寄り添ってきた。それなのに、がんの末期がこんなにも辛くてさみしいものだとは知らなかった」と泣かれました。

それを聞いた私は、言葉をかけることも、何かを為すことも、まったくできませんでした。その方の人生をかけた想いの重さに圧倒され何もできなかった。それが悔しくて家でワンワン泣きました。健康で安心安全な場にいる限り、あの方の胸の内を理解することはできない。ならば私も自ら病気を患い病を乗り越える経験をして、その先にある光を掴みたい。その光を掴んだ体験を患者さんに伝えられたらと思いました。このときの感覚は強いエネルギーに突き動かされる感じで、魂の叫びのようでした。

 

 

 

8月のオンライン追加取材では壮大なお話になりました(坂部さんの背景のような)

 

 


◆“個”が外れた◆

小澤
すると、坂部さんにとってがんは命の尊厳の象徴でもあるようですね。新たな命を宿すことを奪われたが、自分が命を捧げるほどの音楽に巡りあい、二胡を奏でることで多くの人の命に寄り添う。

坂部さん
がんと向き合うことで、自分が変化していきました。32歳のとき腹膜播種が判ってがんによる死の恐怖を感じ、人生を振り返りました。

「すべては自己責任」 

それまでの人生を振り返り、これまで私は自分の人生を生きられていたのだろうか?他者に気を遣ってばかりで、自分の人生の主役になっていなかったのではないか?そう思いました。人生のストーリーの主役は自分でしかないのに。もっと積極的に自分主体で生きなければいけない。例え誤診で命を落とすことになっても、母のせいで自分の人生が狂ってしまったように思うことがあっても、自分の不幸や不運を誰かや、何かのせいにしていたら、生涯にわたって誰かや何かに人生を変えられてしまう人間として生きていかなければならない。いま死に直面しているのも、これまでの自分の選択の積み重ねの結果。自己責任で全てを引き受ける覚悟ができれば、これからの人生は自分次第でどれだけでも変えられる。そう自分の軸が立ちました。

小澤
人生を振り返ることで、がんの恐怖は薄れたのですか?

坂部さん
私が怖かったのは「死んで無になる」という概念でした。三十数年生きただけでお骨になって位牌になる・・・それは虚しいと思っていました。

ある日、友人と日帰りの旅に出かけました。その頃、私は余命と向き合っており、術後の不調やホルモン剤の副作用もあり体調がボロボロでした。みかねた友人が気分転換に誘ってくれたのです。その時、吊り橋の上で不思議な体験をしました。幽体離脱というものがあるなら、たぶんそれだろうと思います。心地よさに包まれ、体にエネルギーが充たされ、浮遊しているような感覚とともに「人は魂の存在で死んでも無にならない」という、宇宙の仕組みを知らしめられた体験でした。それこそが人間の本質だと気づき、それまでの価値観が変わりました。ひとつの人生で完結ではなく。死んでも綿々と続いていく。

小澤
死生観のスケールが変わったのですね。

坂部さん
命がもう尽きようとしている局面でどうしたらポジティブに捉えられるか? 我が身、そして看護の経験ある身として考えました。余命を宣告されれば、命を今日から宣告された日までとカウントしてしまいがちです。物事の見方の例えとして「水が半分入っているコップ」がありますよね。[半分しか入っていない:半分も入っている]。でも私には余命を宣告された状態で「余命があと3ヶ月もある」などと楽観的には捉えられませんでした。しかし、水が半分入っているコップを見つめていてインスピレーションが降りたのです。 これまでの人生を下半分の水とすれば、「過去」は記憶の蓄積に過ぎません。上半分の空間はこの先の人生という「未来」であり、妄想に過ぎません。でも絶対的に存在する「命」はコップの水の水面、つまり“いまこの瞬間”なのだ。余命や病気は関係ない。この瞬間の命を大切に味わい尽くして生きていこうと思いました。

小澤
「いまここ」に目を向けるようになった。

坂部さん
意識が変わったら命に対する感受性が高まりました。「いまこの瞬間」という命の一瞬一瞬を、痛切に鮮明に実感するようになったのです。子どもを持てなくなったショックからずっと世界はモノクロでした。日常のなにげない花やご飯や目に映るものが色彩鮮やかに輝き出しました。感動と感謝の日々になりました。

小澤
今でいうマインドフルネスが通常モードになったようですね。

坂部さん
はい、明日命があるかどうかは分からない。しかし、確かに命がある今この瞬間がどれだけ素晴らしいのかは鮮明に分かる。感謝で満たされていました。

そして、「命がある」、この世に生まれそれ以上の恩恵なんてない。今既に、この瞬間を生きるために必要なものを十分に与えられている。それなのにそれ以上のことを望むことがどれだけ贅沢であったか、普段何気なく漏らしていた不平や不満がいかに傲慢なことであったか、骨身に染みるようになりました。「足るを知る」ですね。目の前のコップ一杯の水がどれだけありがたいか。それに満足せず、もっと美味しいものを、と求める心は欲でありエゴである。すべてがあるがままでありがたい。すでに充たされているから何も要らない、という感覚になりました。

小澤
“here&now”に歓びを感じるようになった。

坂部さん
2010年5月、がんセンターの診察で主治医から「今日でちょうど3年経過しましたね」と言われ、診察室を後にしながら、「私、3年生きられた。すごい奇跡だ」と思った瞬間、「あれ、ちがう」・・・3年生き延び、命拾いしたことが奇跡なのか? だとすると生きられなかった人には奇跡が起こらなかったと言うのか? 先に旅立たれた人たちの顔が思い浮かびました。みんな価値ある人生を生きて、それぞれにドラマがあった。すべての人の今この瞬間こそが奇跡であって、生きた時間の長さではない。

その気づきが起こった瞬間、私の内部では衝撃的な世界が広がりました。一瞬で圧倒的な愛に包まれたような至福感。それは深く、激しく、優しい。自分の意識が天文学的に拡張し、まばゆい光と一体になった感じでした。気づくと魂が打ち震えるほどの体験の素晴らしさに、がんセンターの玄関先で、ポロポロ涙が溢れていました。

小澤
“個”が外れたみたいですね。

坂部さん
そんな感じです! すごい一体感でした。うまく言い表せないのがもどかしいですが、おそらく地球上の言語を超えたものだからだと思います。

小澤
そういう感覚をがんセンターの玄関で感じる人がいらっしゃるのですね。(笑)

坂部さん
そうなんですよ。(笑) その後、我に返っても悩みも不安もまったくない満たされた感覚が1年ほど続きました。その1年間は、もう俗世と感覚が合わなくなってしまって、出家したくなっているのですけどね(笑)

小澤
かなり高位な悟りのレベルじゃないですか?

坂部さん
それが、さらに後日談があって・・・。1年間続いた満たされた境地はさらに進化して、その後無我になって音楽ができなくなってしまった。(笑) 音として表現してきた感情の一切がなくなってしまった。悲しいとか苦しいとか、そういった感情や感覚が全く思い出せなくなってしまったんです。

小澤
あ、そっか!

坂部さん
私が音楽をやる目的は、「病気で苦しんでいる人、何かでつらい思いをしている人、困っている人と音楽で一体となって元気になろう」だったのに…。 自分だけ感情が浄化されて「苦しみが何かわからない」、それでは困る!そう思ったとたん、現世感覚に戻りました。

小澤
坂部さん、光を掴んで帰ってこられたようですね。

坂部さん
母の子として生まれたのも、医療現場を経験したのも、リウマチも、子宮の肉腫も、ここに至るための大いなる計らいだったと思っています。

そして、母は亡くなってしまいましたが、幼少期に母が私のために保育園のバッグやピアノの発表会のドレスを手作りしてくれたことや、一人暮らしをしていた時に手紙の入った食材を送ってくれていたこと。看取りまでの1ヶ月母に付き添う中で「恵奈ちゃん、恵奈ちゃん…」と私を頼りにしていた母の姿…。様々なことがふっと思い出され、病気を経験して心が変わってからの方が、純粋に母の愛を感じられています。

 

 

 

 

坂部さんをご紹介くださった岡崎ゆうあいクリニック院長 小林正学先生(右)




【編集長感想】

坂部さんは、本編に収めきれないほど多くを語ってくださいました。

「人間が人間の常識内で物事の良し悪しの判断や解釈をしている限り、起こったことの本当の意味はわからないと思うようになりました」

個を外すというのは自分の存在が無くなることではなく、存在が拡張してすべてと一体となることなのだと思いました。

人の“スケール”は、実は、広大で自由なのですね。

 

 

 

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