雨が降って欲しくない時に雨が降る


雨よ降れと願えば快晴の空の下


早く寝たい時に眠れない


寝たくないのに襲う睡魔


これらの順番は果たして正しいのか


当たり前のように人は願い、祈るが大抵は叶わない


願った後に事の事情は起きているのか


事の事情が起きた後に判断するのでは遅いのか


焦り願う事で心のリズムを取り戻せるのか

滑り台を登って遊ぶという幼稚な行為をいつまでも続けるのか


ならばいっそ願うという自然への期待をする行為はすぐにやめないか


自然は何も言わない


自然は群衆の望みを聞くほど愚かではないのだ


人間に自然は裁けぬ


完全に自然に人間は飼育されているのだ


自然が我々に餌を与えているのだ


自然が餌を与えるその瞬間に餌の堕ちてくる時間を見ていなければ餌は手にできない

餌を見つけられない者達はいつまでも自然という檻を恨み、蹴つり、奇声をあげて嘆いている


そうしている間に後ろで餌は堕ちている


餌が堕ちていないわけではなく餌を見つけられない人が腹を立て、「こんなとこに餌はない」と嘆いている


背中では賢者が餌を食べながら嘲笑している


さぁ早急に餌を捜しだせ


餌はあんたの後ろに堕ちてきてるんだよ

どちらも人間にはある


少なからず誰にでもある


だかどちらの量が多いかで人として劣化するか進化するかが問われる


大抵の人は虚栄心の方が多いように思える

それは自分の中身がすっからかんの事を受け止めるほどの強さがなく群衆に紛れ群衆が行ったことをあたかも自分の力だと都合良くそのすっからかんの心で受け止める


それぐらいのことぐらいしか想いつかないのだ


想像力に乏しい者たちの集まり


それを群衆と呼ぶ


自尊心の量が多い人は虚栄心など取るに足らないのだ


簡単なことだ


群衆を見下しているからだ


両者はどちらも偏っている


どちらも同じ、天秤がピクリともしない平行を保てるようなバランス感覚の良い人はそうはいまい


このバランス感覚は自由を意味する


自分の感情を操れるのだ


だがこれにも弊害はある


それは操れるという部分だ


操れるのであるが操作してしまうのだ


これは非常に厄介だ


動くいているはずのない筋肉を知らず知らずに動かしていて気が付いたときには筋肉痛という始末だ


操れない人にはこの筋肉痛すら感じない


感じることは不可能だ


その筋肉すら備わっていないのだから


そうすることにより痛みを感じることさえなくへらへらしていられる


どちらが面白いのだろうか。
あざむき,だますこと。





























gameakbakbさんのブログ-100913_1735~01.jpg