ゲームソフトの新ジャンル





前回は、映画や本といった受動型エンタテインメント、そして、非ランダム性エンタテインメントともいうべきパズルとゲームの違い、そして、それらとゲームとの境界線が曖昧になってきていることに触れました。

ゲームに限らず、世の中のあらゆる事象は時間の経過とともに姿を変え、ときにそれまでほかのものと思われていたものと融合し、あるいはまったく新しいものに発展することがあります。昨今のテレビゲームを取り巻く環境もその例から漏れないと言えるかもしれません。

携帯型ゲーム機、ニンテンドーDSの発売とともに任天堂が仕掛けた「トレーニングゲーム」「データベースソフト」という新たな提案が市場に受け入れられ、本来ゲームとは異なると考えられていたソフトが、ソフトが動くハードウェアが携帯ゲーム機であるがゆえに、一般にゲームソフトの一ジャンルと認識されるに至りました。

当初は、トレーニングソフトにもゲーム性を盛り込み「お役立ち感」と「楽しさ」を共存させたものが多かったのですが、ニンテンドーDSのツールとしての機能性、携帯デバイスとしての役割が認知されるとともに、検定モノ、学習モノといった「お役立ち感」に特化したソフトも登場してきました。



このブログですでに再三に渡って書いているゲームの基本的構成要素のうちのひとつ…勝利条件の設定、目的の設定…が、あくまでもゲームを成立させるために実生活とは無関係に概念的に用意された目的、あるいは価値観であることに対し、これらの「お役立ち感」をコンセプトに据えたソフトは、そもそもソフトの目的が明確に実生活に根付いたものとして存在する点で決定的に異なります。

検定モノであれば、ソフトの目的は「試験に合格すること」であり、学習モノであれば「知識が増えること、テストの点があがること」であり、あるいは料理のデータベースであれば「料理がうまくなること」であったりします。これらの目的が「(現実にはいない)ドラゴンを倒すこと」だったり、「(実際にはなれない)サッカー選手となって世界一に輝くこと」とは大きく異なることはご理解いただけるのではないかと思います。



さて、これらのソフトが本質的にはゲームとは異なるはずだと僕はここで力説つもりはありません。それは、僕が言わばアーティスト寄りのゲームクリエイターではなく、ゲームソフトメーカーに勤めている職業プロデューサーであるからです。

すでにこれらのソフトが「ゲームソフトの流通にのって販売されているもの」であり、少なくとも技術的な面で「開発の最先端にいるのはゲームソフトメーカーに他ならない」のですから迷っているひまはありません。従来のゲームの概念とは異なっていても、新たなビジネスチャンスが目の前にあればそれをモノにすべく挑むのが僕らの仕事であり、責任に他ならないのですから。

僕の気持ちを率直に書くならば「新ジャンル開拓、任天堂さんありがとう」ということであり、僕の野望的な意気込みを書くとすれば「次なる新ジャンルは僕の手で!!」なんて感じになるのでしょうか。がんばります。

パズルや映画との境界線




・勝利条件、目的の設定

・世界観、行動範囲のの規定

このふたつのルールがすべてのゲームを成立させていると前回書きました。



何をもって勝ちとするのか、あるいは何をもって目的達成とするのか。そして、勝利や目的に至るまでの方法としては、どこまでが許されていて、どこからは許されていないのか。

このふたつのルールの追求こそがゲーム性の深みを生み、このふたつのルールの魅力的な設定がプレイヤーのハートを掴む根源的な面白さとなるのではないでしょうか。



話は少々横道にそれますが、著名なゲーム作家の中には、僕が挙げているふたつの要素に加えて、インタラクティブであること、ランダム要素があることをゲームの構成要素として定義するひともいます。



インタラクティブであることとは、プレイヤーが意思決定し、何らかの関与をすることで、ゲームの進行や結果に影響を与えることであり、この点が映画や本といった受動的エンターテイメントとは決定的に異なるという指摘です。

また、ランダム要素があることとは、他のプレイヤーの関与や天気といった自然現象の影響、あるいはサイコロの出目やコンピューターのランダム係数によって、プレイヤーの意思に関わらず、結果が常に変化する可能性があるということであり、その点をもって、通り一遍の必勝法が通用するパズルとは明確に異なるという指摘です。



僕はどちらの指摘も的を射たものだと思います。ただ、昨今のテレビゲームを見渡すと、物語を追いかけるだけのノベルゲームやパズルに対決要素や時間制限を加えることでゲーム化されたパズルゲームも数多く存在し、ゲームと映画、パズルとの境界線がかなり曖昧になってきていると感じられます。


そういった理由で、あえてこのブログでは(少なくともいまの段階では)これらの指摘については掘り下げずにおこうと思います。

ただ、これらの指摘は後々「売れるゲーム」について考える際に少なからず話題に上がってくるはずですので、ぜひ頭の片隅に置いておいてもらえればと思います。

ゲームの成り立ち


僕がいま働いている会社は、いわゆるテレビゲーム(最近では欧米風にビデオゲームと言ったりしますが、このブログでは馴染みがあるテレビゲームで統一します)を作るゲームメーカーです。

ですから、僕が日夜考えているゲームとはテレビゲームのことを差します。

したがって、このブログでも最終的にテレビゲームの話として集約されることになりますが、なにはともあれテレビゲームもゲームの一形態に他ならないのですから、「売れるゲームの作りかた」を体系的に整理するには、その第一歩としてまずはゲームそのものの定義をしておきたいところです。



「あなたが好きなゲームはなんですか」と聞かれたとき、思い浮かべるのはどんなゲームでしょうか。テレビゲーム? DSやPSPの携帯機ゲーム? それとも携帯電話のゲームでしょうか。


いえいえ、ちょっと待ってください。よくよく落ち着いて考えてみれば、ゲームはなにもデジタルなものだけではないとすぐに気づかれるのではないでしょうか。トランプやUNO、あるいは様々なキャラクターが描かれたカードゲームもゲームですし、人生ゲームや野球盤のような昔からあるボードゲーム、そのまた更に昔から楽しまれてきた将棋や囲碁ももちろんゲームであることは明らかです。


共通点は何でしょうか。

遊びの一種であること?

楽しいこと?
道具を使った遊ぶこと?
ひと(コンピューター)と対戦すること?

他にも共通点らしきものはありますが、ゲームがゲームたりうるもっとも大切な共通点は『勝利の条件(目的の設定)、世界観の規定(行動の適用範囲)』というふたつのルールが存在すること』だと僕は考えています。

ゲームは、千差万別、オリジナリティ溢れるルールによってひとつひとつが個性的なものですが、どんなゲームも例外なくこのふたつのルールは存在します。

ひとつ目のルール。勝利条件の設定。プレイヤーの目的の設定と言ってもいいかもしれません。

二つ目のルール。世界観の規定。あるいは、行動の適用範囲、より簡単に言えば、ゲームの場、フィールド、ゲームが成り立つ物理的、あるいは概念的な範囲というべきものです。

繰り返しますが、すべてのゲームはこのふたつのルールによって成り立っていると僕は考えています。



逆説的に言えば、このふたつが成立していればどんなものでもゲーム足り得ますし、成立させることでゲーム化することができると言えるのではないでしょうか。



手のひらを一定のカタチに握って、カタチごとに優劣をつけて勝敗を決めるじゃんけんもゲームですし、スポーツの多くに「ゲーム」称されるものがあるのもごく自然なことですし、本来、人間の生活上の営みに過ぎない狩りや釣りでさえも、決まった条件下でその腕を競う、とルール化した瞬間にゲームとしての面白み、楽しさを帯びてくるのです。

「人生はゲームだ」という言葉があります。


人生というひとの生活のすべて、存在そのものを意味するものでさえ、客観的に一定の尺度で目的と行動結果を意図的に整理すること(=ルール化)でゲームのような気持ちで楽しむことができるのです。ただ一点、この場合はゲームでの失点、失策がそのまま自分の生活を左右しかねない点を除けば。