前回の続きです。
前回の最後にわたしは、
自立した人間同士のコミュニケーションとはどういうものなのか、ということについても、
わたしはこの出来事からたくさん考えさせられました。
と書いていました。
そのことについて、少し詳しく書いてみたいと思います
そもそも、自立した人間同士のコミュニケーションとはどのようなものなのでしょうか。
それは、お互いが自立した人間同士だと認め合っていて、しっかりとお互いの考えや氣持ちを見せて話し合うことです
また、相手の課題には必要以上に首を突っ込まないということも大切です。
相手を一人の自立した人間だと認めるということは、相手はその問題を自ら解決できる力を持っている、と信じることができるということでもあります
今考えると、わたしと母との関係性は、このようなものではありませんでした。
以前も書いたことがあるかも知れませんが、
わたしのうちでは、わたしに対して「あなたはどう思う?」とか、「どうしたいの?」とか、そういう問いかけをされることはあまりありませんでした
(まぁ、全くなかった…というわけではなくて、
将来の進路のこととか、大きな部分ではわたしの考えを尊重しようとしてくれていたことももちろんあったと思います)
でも、日常的な場面では、母の思うように動かないと怒られる、というのがデフォルトでした。
そしてわたしは、母を怒らせてしまわないかと、いつもビクビクして過ごしていました。
例えばなのですが、小学生の時、わたしはテレビを見ながら朝ご飯を食べていました。
そうするとテレビに集中してしまって、ときどき口や手が止まってしまうことがありました
母はそんな時、朝の時間がない中だというのもあって、「早く食べなさい!!」と怒ります。
わたしも、早く食べなくてはいけないとは思うのですが、
テレビが点いているとまたどうしてもそちらに氣を取られてしまうのです
そして、また怒られて、急かされながら食べて…ということがよくありました。
「そんなに食べるのが遅いなら消すから!!」
と言って、テレビを消されたこともありました。
こういう時、わたしが感じていたのは、
「なんでわたしは、お母さんの言うように早く食べられないんだろう…
わたしって、お母さんにいつも怒られて、ダメな子だな…」
ということでした。
このようなさまざまな出来事が重なる中で、わたしの中には、
相手の思うように動かないと愛されないのだ…。
わたしは、ダメな子なのだ…。
という観念が、自然と育っていきました。
でも、例えばこれと同じような場面だったとしても、
対話をすることで、お互いの感覚が変わってくると思うのです
もし仮に、わたしがこれと同じ状況になって、子どもたちを怒ることが重なってしまったとしたら、こんな話をしてみたいな…と感じます
「お母さんは、朝は仕事に行かないといけないから、どうしても急がないといけない。
そんな中で、あなたがゆっくり食べているのを見ると、『早くしないといけないのに!』という氣持ちが湧いてきてしまって、怒ってしまうことがあるの。
お母さんは、あなたのことを怒りたくないし、あなたも、怒られるのは嫌だよね。ごめんね。
どうしたら、この状況を変えていくことができるか、一緒に考えてみようか。」
これが正解かどうはかわからないのですが、
このような話し合いの場面を、子どもと持ちたいな…と思うのです
その中で、テレビが点いていると早く食べられない…という話が出てくるなら、
朝はテレビを消す、という方法が出てくるかもしれません
他にも、子どもからの案がいろいろ出てくるかもしれません
そして、話し合った案で試しにやってみて、
もしまたうまくいかないことや、子どもやわたしに不満な氣持ちが出てきたりしたら、
またお互いの氣持ちや考えを見せ合って、一番良い形を話し合う。
そのような関係でいたいな…と感じるのです
小さい頃からの母との関係を思い出してみたとき、そのような話し合いの場面はあまりなく、
わたしが母の言うように動けないと、
「じゃあもう知らないよ!」…という感じで母との関係を断たれる?ような関わり方をされていたことが多かったように思います
母自身の氣持ちや考えについても、話してもらったような記憶はあまりありません。
「わたしはこうして欲しい」「こうしたい」という母自身の希望は話してくれないのに、
わたしがその希望通りに動けないとイライラし始める…ということも多かったのです
実は前回のブログで書いた、娘の新生児期のできごとでも、
わたしは母に対して、
「自分のペースで過ごしたいから、もう少し遅く来て欲しい。」
という、わたしの方の思いは話したつもりだったんです。
でも、母はそれに対して怒りが湧いてしまったので、
母はどうして早く来てくれていたのか、または来たかったのか…という氣持ちの部分は、わたしは聞けていません
もしも、わたしが自分の氣持ちを伝えた時に、母も、
新生児期の可愛い孫をたくさん見たいから…とか、
うちまで来るのが大変だから、早く来てから少し休みたいから…とか、
少しでも、娘であるわたしのためになりたいから…とか、
早く来てくれる理由や氣持ちを話してくれていたとしたら、
お互いの心の内がわかった上で、もう少し話し合いができていたのかもしれません
(でも、これは母が悪いというわけでもなくて、
母も、自身の生い立ちの中で、そのようなコミュニケーションの在り方があるということを、知らずに育ってきてしまったんですね)
早く来ることが、きっと母にとってはわたしへの愛だったんです。
でも、わたしがそれを受け入れてくれないから、
「もうあなたなんか知らない!」という感じで、息子のお迎えはもうやらない!!となってしまったのだと思います
この出来事があってわかったのは、
わたしはずっとずっと、これが怖かったのだな…と言うことです。
母の言うことや愛し方をわたしが受け入れなければ、もうそれ以上は愛してもらえなくなる。
ずっとそれが怖くて、わたしは母の言うことを聞き続けていたし、
本心では「嫌だ」と感じながらも、我慢して母からの愛を受け取り続けていたのだな…と感じました
この出来事は、わたしがそこから脱皮した瞬間でした。
母の愛を受け取らないということ。
母から愛されるという選択を捨てること。
それは、本当に勇気がいることです
でも、その覚悟を持ったからこそ、わたしはそこから自由になれたのだと感じます
そして、
どんなに相手が良かれと思ってやってくれたことだったとしても、
それが「わたしの氣持ち」を無視したものだったなら、受け取る必要はない。
…そのようなことに氣付けたのも、
当時のわたしにとっては大きな学びでした
そして、ここまでいろいろ書いてはいますが、
今のわたしは、「これらのできごとは、全て母が悪かった」とは、全く思っていないのです
むしろ魂の視点で見ると、
母はわたしのためにこれらの現実を創ってくれたと知っているので、むしろ感謝が湧いてきます
この現実を望んでいたのはわたしなのだ、というのも、今は腑に落ちていると思います。
でも、やはりその理解に辿り着くまでには、
「親のせいで、わたしはこうなってしまった!!
どうしてくれるばかやろーー!!!」
…という怒りを爆発させる段階がどうしても必要だったと、自分の経験から感じています。
自分を抑えてきたものに対して怒りが出るというのは、正当な反応です
自分を大切に思うからこそ、抑えつけるものへの怒りが湧いてくるのです。
だから、何かから抑えつけられて生きてきた…という自覚がある人は、
思う存分怒って、反抗して、暴れてみることも、自分を取り戻す上ではものすごく大切なことなのかもしれません
まとまりませんが、続きます
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