少し前の話になるのですが、
他人がすごく輝いているように見えて、それを「羨ましいな…」と感じている自分に氣付いたことがありました。
そして、
「そうか、わたしは『自分もこんな風に輝きたい』という氣持ちをもっているんだな…。」
と感じたのです
さらにふと、このようにも思ったのです。
「自分が輝きたい」というのは、自我の欲求だよな…。
それなら「他者を輝かせたい」と感じるのが、覚者の、そして5次元の感覚なのだろうか?
わたしは「他者を輝かせたい」という氣持ちも持っているとは思うけれど、「自分を輝かせたい」という氣持ちの方がまだ強いかもしれないな。
わたしは、まだまだどこかに「痛み」があるから、そのように思う…ということなのだろうか。
そして、試しにその方のどんなところが輝いていると感じているのかを箇条書きにしてみました
すると、なんと「この項目…全部わたしのことを言ってない?」と感じたのです笑
不思議なことに、他者に対して羨ましいと感じていたことが、実は自分のことだったという感じがしてきたのです
(細かいことはここでは書きませんが)
実際、今のわたしが輝いていないのかと聞かれれば、冷静に考えてそんなことはないよな…とも思います
これからの時代は、自分も他者も、それぞれの能力を発揮しながらみんなで輝いていく時代だと言われていますよね
しかし、今までの地の時代は、誰かが輝くことは、イコール自分が輝けなくなることでもありました。
誰かが一番を取ることは、それ以外の誰かは一番ではなくなるということです。
誰かがお金をたくさん手に入れるということは、それ以外の誰かはお金を手に入れられなくなるということです。
そのような、椅子取りゲームの価値観の中では、「自分が輝くこと」と「他者が輝くこと」は両立しません
今回、まだまだわたしは「自分を輝かせたい。」という氣持ちを持っていることに氣付きました。
だからこそ、自分と同じように輝いている他者を見て、焦ったり、羨ましいと感じたりしてしまっていたのです
まだまだわたしは、「自分vs他者」のような感覚から抜け切れていないのだな…
そのように、感じました。
そして、そこから自分なりにいろいろ考えている中で、また新たな感覚にたどり着いたように思うのです
それは一言で言うと、
「わたしが輝かせたいのは、『わたし』ではなく、『他者』でもなく、『わたしを含めたより大きな生命(いのち)』なのだ。」
という感覚です
今までわたしは、「輝くのは自分か、他者か。」という二極の価値観の中にいました。
しかしこの二つは、実は両立できるものです。
そしてそれだけではなく、二つを両立することによって、より大きな意味を持つことができる性質のものでもあるのです。
自分が好きなこと・得意なことをすると、他者を輝かせてあげることにも繋がる。
他者が好きなこと・得意なことをすると、自分を輝かせてもらえることにも繋がる。
そしてさらに言えば、
それらが「より大きな生命(いのち)」を輝かせることにも繋がるのではないかと、今回感じたのです
それはいわば、自我を持つこの「わたし」よりも大きな魂となった「わたし」を輝かせるということでもあります。
例えば我が家の話なのですが、
わたしってお金の計算がすごく苦手なんですね
お金のことを考えるのが、全然楽しくない
あまり、お金を増やすということにも興味が持てなくて、家計簿とかもめんどくさくてやりたくないタイプです
一方、夫はお金の計算がめちゃくちゃ好きな人です笑
(わたしからすると理解できないのですが笑)
だからうちの家族は、夫にものすごく助けられています
うちのお金のことは、夫が全てやってくれていて、本当にありがたい限りです。
それに対して、子どもと遊んだりおしゃべりしたりするのは、夫よりもわたしの方が得意です
わたしはもともと心に興味があったので、
育児本を読むのが好きだし、子どもの心の成長のためにどう接するのがいいのか…というようなことも、学んだり考えたりするのが好きでした。
そうやって、夫が苦手な部分はわたしが補っています
このように我が家の場合も、
やはり自然とそれぞれの得意なこと、好きなことをすることが、相手のためになっているのです
そしてさらに言えば、それによってより大きな「家族」というコミュニティがしっかりと機能している、とも言えると思います
いわばこれが、「より大きな生命」を輝かせている、ということだと思います
わたしたちはスピリチュアル的に見ると、もともとひとつのものが分かれて生まれた、と言われていますよね
なのでそもそも、本来わたしたちは、
自分一人だけでは自分を生きられない、本当の意味では輝けない存在なのです
それは、わたしたち人間の身体をそれぞれの部分で分けてしまったとしたらどうなるか…というのを想像するとわかりやすいかもしれません
「目」は見ることができるけれど、足がなければ見たいものを見に行くことはできません。
「足」は歩けるけれど、口がなければ歩くためのパワーを補給することができません。
「口」は食べられるけれど、胃や腸がなければ栄養を消化吸収することはできません。
…このようにわたしたちの身体も、それぞれの部分だけが存在していても、その役割を十分に発揮することはできないのです
それぞれの部分が全て合わさり統合されることで、ようやく全体の中で本来の役割が発揮されます
そして、わたしたちが身体を維持し、生きていくための完全なシステムが働くのです
つまりわたしたちは、
一人ひとりが、より大きなコミュニティの「目」であり、「足」であり、「口」であるとも言えるのです
「目」が、わたしの身体の一部であるように、
「足」が、わたしの身体の一部であるように、
「わたし自身」も、より大きな生命の一部である、と捉えられるのです
心理学のゲシュタルト療法についての本の中に、このような言葉を見つけたことがあります。
それは、「全体は、その部分部分の総和よりも偉大である。」という言葉です。
まさに、わたしたち一人ひとりが合わさり、お互いに関係を持つことで、よりパワーのある「大きな生命(いのち)」が現れてくるのだと感じます
「わたしが輝かせたいのは、この『より大きな生命』という意味の『わたし』の方だったのだ。」
なんだか今、そんな感じがしています
「自己」と「他者」。
それさえも、この地球に存在する二極の価値観の一つでしかなかったのだと、今回氣付かされました。
この世界にあるのは「自己」も「他者」も合わせた、「大きな一つの生命」だったのです。
その中では、「自分」や「個」の概念は薄れていくでしょう
より大きな生命を輝かせるために、
「自分が輝きたかった」という自我の痛みについても、もう一度、自分の中を確認してみたいと感じているところです。
なんだか観念的でわかりにくかったらすみません
今日もありがとうございました
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