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LIVIN' ON THE ROAD

-Galsa's Diary-
Since 2008.04.10

こんばんは。

8月の16日に茨城県内の11市町村を旅しました。

今夜は最後の2箇所を紹介します。


まずは、


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美浦村です。Wikipediaでは、


霞ヶ浦の南西に位置し、人口18,199人、

面積34.03 km²(2007年8月1日)。 村内には

日本中央競馬会(JRA)の美浦トレーニングセンター、

日本テキサスインスツルメンツの美浦工場、

ホギメディカルの美浦工場があり、

財政は比較的安定している。


2006年に、西隣の阿見町との合併・市制施行

(「霞南市(かなんし)」)が検討されていたが、

2005年1月30日に執行された

「美浦村の合併について村民の意思を問う住民投票」に

おいて反対多数の結果となり、合併は中止となった。


ちなみに県内の村の数は、平成の大合併により

この美浦村と東海村の2つのみになりました。



村役場から一枚。


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美浦村も任務完了です。

そして最後にまわった場所は、


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行方(なめがた)市です。Wikipediaでは、


東京都心から約70km、県庁所在地の水戸市から約40kmに

位置する。東は北浦、西は霞ヶ浦という二つの広い湖に

挟まれ、東西の湖岸部分は低地、内陸部は標高30m前後の

行方台地といわれる丘陵台地により形成されている。

水戸市や土浦市から車で約1時間、

石岡市や鹿嶋市からは約30分である。


2005年(平成17年)9月2日 -

麻生町・玉造町・北浦町と合併し行方市が発足。


玉造町の住民の要望により玉造町で実施された

「合併に関する住民投票」では、当時の坂本俊彦町長

(後の行方市初代市長)が主張する、

「麻生町、北浦町との合併」に反対する票が多数を占めたが、

町長は合併を強行した。


当時、北部(旧玉造町)の住民からは北の小美玉市

(旧:小川町)と、南部(旧麻生町)の住民からは南の

潮来市(旧:牛堀町・潮来町)と、東部(旧北浦町)の住民からは

東の鉾田市(旧:鉾田町)との合併を希望する意見が

出されたが、合意には至らなかった。


2011年(平成23年)3月11日‐東日本大震災により震度6弱を観測。

水道等のライフラインが壊滅的な被害を受けたうえに、

旧北浦町と対岸の鉾田市を結ぶ国道354号の

鹿行大橋が崩落した(現在は復興し開通している)。



潮来市の境から一枚。


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行方市も任務完了です。



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県内はここまで塗りつぶせました。



白い部分を塗りつぶせるのは、

いつの事になるかわかりませんが、

今年中には完成させたいと思います。





ではでは。

こんばんは。

今夜も旅の報告をさせていただきます。




まずは、


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牛久市です。Wikipediaでは、


東京都心からおよそ50キロ程度の位置にあり、

牛久駅を中心とした地域は東京のベッドタウンとして

宅地開発が進み、人口が増加した。

人口約8万人。市東部には仏像の牛久大仏がある。


市北西部から南東部にかけて小野川が流れ

東部から東部に乙戸川、桂川が合流する。

また、西部で牛久沼に一部接している。


沖積低地と関東ロームから成る洪積台地の二層構造の

地形が特徴である。低地と台地の標高はそれぞれ

5mから25mほどで若干の起伏はあるが平野の範囲内である。


牛久の地名の由来には諸説あるが、古語に由来するものと

考えられる。ただし、龍ケ崎市の金龍寺に

「怠け者の小僧が牛になってしまい、沼に身投げをした。

そこから『牛を沼が食った』『牛食う沼』と変わり、その沼が

牛久沼と呼ばれるようになった」

という昔話が伝わっており、沼の名の由来・地名の由来ともに、

この伝説がまるで真説のように流布している。

なお、牛久沼は現在の龍ケ崎市に位置する。

「潮来」(うしおく)が「うしく」になったとする説、

鵜宿あるいは卯宿(うしゅく)が転じたとする説などもあるが、

上記の金龍寺の伝説が一般に支持されている。




市役所から一枚。


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牛久市のミッション完了。




続いては、


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阿見町です。Wikipediaでは、


南部に位置する町である。

1921年(大正10年)に海軍霞ヶ浦飛行場開設、

翌年上郷に海軍航空隊が開隊され、以来、

海軍航空の町として名を馳せる。

1929年(昭和4年)にツェッペリン伯号飛行船、

1931年(昭和6年)にはリンドバーグ夫妻が

阿見の地を訪れる。


1939年(昭和14年)には、神奈川県横須賀市から

少年航空兵養成機関である予科練が土浦海軍航空隊に移転、

軍歌「若鷲の歌」で知られるように、

海軍航空兵育成の一大拠点となる。


戦後、海軍用地の一部を利用し、旧制霞ヶ浦農科大学を設置、

その後茨城大学農学部となって、現在まで学生の町である。


2006年(平成18年)に、東隣の稲敷郡美浦村との

合併・市制施行(仮称「霞南市(かなんし)」)が検討されていたが、

美浦村の住民投票により反対となった為、白紙に。


2009年(平成21年)7月9日、首都圏中央連絡自動車道

阿見東IC付近にあみプレミアム・アウトレットが開店。




県道から一枚。

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阿見町も任務完了です。


明日も更新します。





ではでは。



こんばんは。

今日は3市町を紹介します。


まずは、


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河内町です。Wikipediaでは、


南端に位置し、利根川と新利根川に挟まれている。


成田国際空港株式会社から成田国際空港周辺対策交付金を

受け取る自治体であるが、成田空港圏自治体連絡協議会を

構成する自治体には含まれていない。


明治の大合併で誕生した金江津村(旧金江津村、片巻村、

下加納村、平川村、十三間戸村が合併)は元々

下総国香取郡であった。明治中期に利根川がほぼ現在の

流路に改修され、香取郡は川により分断、北部は千葉県から

茨城県に越県し金江津村は稲敷郡に編入した。

つまり町内に常陸・下総の国境があったのである。

現在「大境」の地名が名残を伝えている。



県道沿いで一枚。


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河内町、任務完了。



続いては、


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利根町です。Wikipediaでは、


南部に位置する町である。

現在、北相馬郡(旧下総国)に属する唯一の町である。


町域はほとんど平坦である。

町の南側は利根川に沿っており、気候は比較的温暖である。

また桜や銀杏の木が美しい通りがいくつもあり、

利根川の土手とともに地元住民の散歩コースとして人気である。


利根川を挟んで千葉県と接しており、千葉県我孫子市側と結ぶ

栄橋が1971年に架け替えられた後、

利根ニュータウンなどで新住民が増加した。


1985年には人口が2万人を超えるが、現在は人口は

減少傾向にある。町内の地価も下落する傾向が続き、

平成20年には東京圏の住宅地の地価下落率-5.9%で

トップとなるなど、地価下落は深刻な状態となっている。


隣接する龍ケ崎市との合併を検討し、

合併協議会が2003年に設置されたが、

成立せず2005年に合併協議会を廃止した。


8月の納涼花火大会が有名で、

毎年周辺地域からの人出で賑わう。

また近年、健康や福祉に力を入れている町として

メディアで紹介された。 農業は稲作が中心であるが、

町内には有機栽培のコーヒー豆を使用した全国的に有名な

カフェもありさまざまな作物が育てられている。




町役場から一枚。


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降ろされる寸前で撮りました。


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利根町も任務完了。



そして本日最後は、


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龍ヶ崎市です。Wikipediaでは、


南部に位置する市である。様々な表記をされるが、

正式には「龍ケ崎市」で、「龍」・「ケ」を使用する。

但し、鉄道駅は「竜ヶ崎駅」、県立高等学校は

「竜ヶ崎」の文字を使用する。


東京都心から約45kmの位置にあり、ベッドタウンとして

市北部の丘陵地帯に竜ヶ崎ニュータウンが開発され

人口が増加したが、現在は落ち着いて横ばい傾向にある。


冬の冷え込みは厳しく、1984年(昭和59年)1月20日には

-15.5℃を記録している。これは、

近年の関東平野部の最低気温では最も低い部類に入る。


平安時代末期、この地の地頭に任ぜられた下河辺政義が、

鎌倉時代に源義経の姻戚であったことから、

領地を没収された後、氏を龍崎と称したことが由来とされる。


旧川原代村と旧北文間村(長沖、長沖新田、羽黒、豊田、

須藤堀、北方)および旧高須村(高須、大留)は北相馬郡、

すなわち下総国であった。それ以外は元来常陸国河内郡で

あった。小貝川が現在より東を流れ国境を形成していたのである。


旧龍ケ崎町中心市街は、関東鉄道竜ヶ崎線竜ヶ崎駅から

東に2km程度伸びている。その中には薬師堂・八坂神社・

竜泉寺などの古い寺社があるほか、当時の豪商「小野瀬家」の

店舗兼住宅が残されており、国の登録有形文化財に

登録されて保存されている。

江戸時代以前から地域の商業都市として栄えた。


江戸時代前期以前から、関東から東北に向かう海岸沿いの

ルートのひとつが、龍ヶ崎を通っていた。江戸幕府によって

水戸街道が制定された際に、水戸街道は龍ヶ崎より西の

取手宿・藤代宿・若柴宿・牛久宿を抜けるルートになり、

龍ヶ崎は正式な街道筋からは外れた。


その後も、藤代宿と若柴宿の間にある追分から脇街道が分岐し、

龍ヶ崎を通ったのち現千葉県の布佐・木下・安食を経由して

成田に至っていた。また小貝川・利根川・江戸川の水運もあって、

交通の要衝・物資の集積地であることに変わりなかった。




市役所前から一枚。


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龍ヶ崎市も任務完了です。



明日も更新するのでお楽しみに。








ではでは。