米国や英国の「洋楽」を「邦楽」と同じように日本の大衆が「消費」した時代は1985年までだと言います。
もちろん、以後、「洋楽」が日本で大衆的には全く聞かれなくなったというわけではありません。
例えば、Mariah Careyの『All I Want For Christmas Is You』(1994年発表)は今でもシーズンになれば街に流れ続けていますし、Whitney Houstonの『I Will Always Love You』(92年『ボディガード』主題歌)、Céline Dionの『To Love You More』(95年『美女と野獣』主題歌)と『My Heart Will Go On』(97年『タイタニック』主題歌)、英国発ではElton Johnの『Candle In The Wind』(97年にダイアナ妃追悼でリメイク)。これらの曲は85年以後でありながら日本における「洋楽」の歴代売り上げ最上位層にあります。
ただ、どれもスタンダードな「歌モノ」であって時代の最先端なポップ・ミュージックではない。


西寺郷太の『ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い』(2015年)の第8章部分より。
〈ウィー・アー・ザ・ワールド〉が「世界中に興奮を与え、愛された」ひとつ目の大きな理由。僕は45人のスターたちが一堂に会して、スタジオで繰り広げた素顔が記録され、公開されたこと――世界中がそのライヴ感の目撃者となれたこと――にあると思う。
曲の誕生から、完成に至るまでのプロセスを「映像」として見せ、売った。
登場人物のキャラクターの派手さと、面白さ。まさに人間同士の化学反応と乱反射の究極の記録。
~(中略)~
カメラマンたちは、いたって普通の撮影方法で、指定された場所に集まり、共に歌った人々を収めただけだ。しかし1985年1月28日夜のA&Mスタジオで撮影された45人の生身の姿は、どんな特撮やCGよりもカタルシスを感じさせる「映像と音楽の融合」だった。
楽曲と映像の合わせ技。それこそ、僕が〈ウィー・アー・ザ・ワールド〉を「アメリカン・ポップスの集大成」だと考える理由だ。
ただし、この奇跡の夜のルポルタージュは、少しばかり「面白すぎ」た。登場した歌手の多く、特に映像でもその派手な魅力が伝わりやすい者(例えば、シンディ・ローパーやティナ・ターナー、ヒューイ・ルイスなど)は極度に愛されすぎ、成功しすぎた。彼らの「顔と名前」そして「声と音楽」は老若男女に認識され、愛される「世界のお茶の間の有名人」になってしまった。
まるで流布しすぎ、露出しすぎた「一発ギャグ芸人」のように……。参加者は鮮烈な印象によって、世界的規模で消費し尽くされた。
「〈ウィー・アー・ザ・ワールド〉に参加した現役世代のアーティストは、翌1986年までの2年間で自身の調子を最大に上げた後、軒並み失速する」
これこそが、僕、西寺郷太が提唱する仮設「ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い」である
「お祭りソング」としての『We Are The World』は成功しすぎてしまったのですね。
米国のエンタメを代表するスーパースターを集めた映像作品としての『We Are The World』は彼ら彼女らを徹底的にキャラクターとして消費し尽くし85年という時代に固定化してしまう。
『We Are The World』に間に合わなかったマドンナは90年代以降も時代の最前線に立ち続けていますが、シンディ・ローパーは80年代の懐メロ歌手扱い。80年代にとどまってしまったライオネル・リッチーに対し、マイケル・ジャクソンは90年代以降も最前線に立ち続けますが、マイケルの場合は音楽やポップ・アイコンというよりは"お茶の間の有名人"としてスキャンダルや奇行で知られる「お騒がせキャラ」で消費されるようになってしまうのです。


『ジャネット・ジャクソンと80'sディーバたち』に戻り、
1985年から、1986年にかけて起こった変化を端的に言い表せば、「ファンタジーから、ノンフィクションへ」という言葉で説明できるだろう。「ファンタジーからリアルへ」と言い換えてもいいかも知れない。それには、世界を襲った二つの大事件が関係している。いずれも発信源は、第二次世界大戦後、40年に渡ってアメリカを盟主とする資本主義陣営(西側)と対立し続けてきた共産主義陣営(東側)の盟主、ソビエト連邦だった。
まずは1985年3月11日に就任当初から健康状態に懸念があったコンスタンチン・チェルネンコ書記長の死去を受け、当時54歳のミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任したことだ。
西寺郷太は"ファンタジーから、ノンフィクションへ"もしくは"ファンタジーからリアルへ"という言葉で説明できると言いますが、私ならば20世紀の「大きな物語」が終わった瞬間だと表現するかな。



20世紀、米国と並ぶ超大国と目されていたソビエト連邦は1985年、ミハイル・ゴルバチョフを新しい指導者に就けます。
それまで西側諸国と東側諸国の「冷戦」構造にあった二分された世界はゴルバチョフ政権の登場により雪解けに向かいます。その時、ゴルバチョフはソ連から登場した世界的スターとして扱われるんですね。
西側諸国も若い指導者への融和の期待を高まらせた。我々はついに冷戦と軍部拡張競争の時代を終わらせられるのではないか、と。
ゴルバチョフ就任のタイミングは、まさしく「アフリカ飢餓を救うため」に歌われた「USA・フォー・アフリカ」による〈ウィー・アー・ザ・ワールド〉リリースと同じ週の出来事だった。
プリンスが人種、国境を越えた摩訶不思議な音楽感覚をごちゃ混ぜにした名盤〈アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ〉を発表したのは、1985年4月21日のこと。ヒッピー・テイストのカラフルなアートワークは、多くの評論家から「1980年代のサージェント・ペパーズ」などと呼ばれた。7月31日に欧米のアーティストが結集した前述のライヴ・エイドも含め、対話の出来る新指導者の登場により軋轢を続けた東西諸国間の未来にかすかな希望が生まれた。その浮かれたムードが、1985年春から夏にかけてミュージシャン達の生み出した音楽、動向にも如実に反映した。


冷戦からの緊張緩和が、東西融和の明るい未来への展望が見えたように思わせ、"浮かれたムード"がエンタメの世界にも影響を与えます。「資本主義の勝利」はエンタメ業界にとっても新たな市場が開かれ、より稼げる時代が到来するように思われたのです。
前年の1984年に世界的にヒットした西ベルリン出身のNENEの『99 Red Balloons』を聴くとたった一年で時代が変わってしまったことが分かります。



当時の浮かれたムードの一つの事例として『We Are The World』発売と「LIVE AID」開催の間の5月にHR/HM勢が〈Dio〉のRonnie James Dioを中心に「Hear N' Aid」として集まりレコーディングした『Stars』 もあります。これも検索して見てもらうこととして、数週間ほど前に『Classic Rock』誌に掲載された「Inside the Hear 'N Aid sessions: "It’s one moment in hard rock history that we can all be proud of"」という〈Dokken〉のDon Dokkenへのインタビューがちょっと面白かった。その『Stars』ですがディオが各バンドのレーベルやマネージメントと交渉しているうちに発売が遅れ86年1月と完全にタイミングを失うのですが、そうした顛末も含めて浮かれてたんでしょうね。
秋を迎えたあたりから世界中のお祭り疲れした人々は我に返った。俺たちは熱病にやられたように一体何に大騒ぎしていたのだろうか、と。大金持ちのスーパースター、セレブリティ達が手を繋ぎ、呑気な歌で寄付を募っている、それだけでいいのか……?
ただ、「資本主義の勝利」は素朴に祝えるようなものだったのか? 差別主義者などからのカネで稼ぐのは市場主義の観点から問題なくとも大人になったミュージシャンのモラルとしてあり得るのか? と冷や水を浴びせたのが『SUN CITY』だったわけですが、こうした問題は今現在に直結し、いまだ解消されるどころか歪みはより大きくなっているよう私には見えます。

……米国の隣国として「歪み」が大きく影響するメキシコでは、ゴルバチョフの死を報じるメディアがそろってピザ・ハットのCMを扱っていたのが興味深かったです。私自身もウクライナ侵攻以降のロシアにおけるゴルバチョフの死で思い出したのはピザ・ハットだったもんな。

90年代のピザ・ハットCMといえばドナルド・トランプも有名ですし、見事に現在に接続されているように思えてきます。

淀み始めた不穏な空気に最後の衝撃を与えたのが、1986年4月26日午前1時23分にソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故だ。
当初、情報は秘されていたが、翌27日には海を越えたスウェーデンで放射能が検出され、ソ連政府は事故発生の公表を余儀なくされる。5月上旬までに北半球のほぼ全域に、この事故が原因となる影響が及んだ。
1986年4月26日、ソビエト連邦を構成するウクライナ共和国チェルノブイリにある原子力発電所が爆発。爆発で拡散した放射性物質はヨーロッパにも流れ込み2日後には全世界で報じられるに至ります。東西冷戦の終了で核戦争の危機が遠のいたように思われた世界が、再び核の冬を現実のものとして怯えることになったのが86年4月28日以後。



そんな86年の5月、核の冬を描いたアニメーション映画『When the Wind Blows』のサウンドトラックが英国で発売されます。音楽プロデューサーは元〈Pink Floyd〉のRoger Watersで、主題歌はDavid Bowie。〈Genesis〉らも参加したこのサントラは前年85年にレコーディングを終えていましたが、これ以上ないタイミングでリリースされたのです。
……そして再びのウクライナでの危機において(逆にロジャー・ウォーターズは抜きの)〈Pink Floyd〉が現地ミュージシャンのAndriy Khlyvnyukと『Hey Hey Rise Up』を発表、と、ここでも現在に接続される。
あくまでも「ポップス」と呼ばれる世界に限定してみれば、僕は結果的に〈サン・シティ〉での地殻変動とチェルノブイリの原子力事故から最大のとばっちりを受けたのは、ジョージ・マイケルとアンドリュー・リッジリーによる英国のポップ・デュオ、ワム!だったと思う。
1986年2月。
『ヴァラエティ』紙と『ハリウッド・リポーター』紙は、以下のように報じた。
「ワム! サン・シティに身売り」
ことの顛末を何も知らないジョージ・マイケルは、ロサンゼルスで彼のアメリカでのエージェント、ロブ・カーンから新聞を手渡され、ただただ驚いたという。記事を読んでみると、ワム!のマネージメント会社ノーミスが、南アフリカのホテル・不動産グループ「サン・インターナショナル」の創業者ソル・カーズナーに間接的に売り渡された、と記されていた
こうした85年から86年への移り変わりで"最大のとばっちりを受けた"のはワム!だと西寺郷太は言います。
George MichaelとAndrew Ridgeleyのデュオ〈Wham!〉は1983年の1stアルバム『FANTASTIC』が全英1位となり英国を代表するポップ・スターとなり、84年の2ndアルバム『MAKE IT BIG』で世界進出。シングルカットされた『Wake Me Up Before You Go-Go』は全英と全米のチャートで1位となり、21歳にして二人は世界的ポップ・スターに。
そんなワム!の二人に86年2月に衝撃的なニュースが入りました。
『SUN CITY』発表から4カ月後、二人が知らないうちにサン・シティを経営するソル・カーズナーのグループ企業にワム!がマネージメント事務所ごと売却されたと報じられたのです。
ワム!のマネージャーはザ・ヤードバーズ、マーク・ボランやジャパンなど数々のアーティストをスターダムに乗せたサイモン・ネピア・ベル。その豪腕に対する評価と同時に悪名高い彼は、世界中にワム!を売り込むパブリシティ戦略として、彼らを「当時まだ完全に閉ざされた共産主義国であった中国で、初めてコンサートを成功させた西側の人気グループ」とすることに狙いを定めた。4月18日、中国政府がワム!の《メイク・イット・ビッグ》で初めて西洋音楽のレコード販売を許可したことも含め、「ワム!中国公演」のニュースは世界中の新聞やテレビで集中砲火のように流れた。サイモンの作戦は完全に当たり、ここで完全にワム!は「キャズム」を超えた。
サイモン・ネピア=ベルがワム!を全世界に向けて売り出すにあたって仕掛けたのは、彼らを芸能ニュースではなく報道ニュースに載せること。

「音楽ではなくイメージを売る」と公言するサイモン・ネピア=ベルは、ソ連と並ぶ東側の大国である中国で公演する初めての若きポップ・スターとしてワム!を報道させることで芸能ニュースの枠を越えた知名度を85年に確立させました。これが"「キャズム」を超え"るということです。
シンガーである作詞作曲編曲などすべてを取り仕切るジョージ・マイケルはまだ22歳ながら、頭脳明晰、冷徹な感覚で自らのポップスターとしての世界戦略を練り、スタッフを選び、成功までの軌跡を完全に具現化したつもりだった。しかし、やはりまだ彼は大人達に運命を左右される「子供」だった
~(中略)~
サイモンは先手を売った。ワム!の商品価値が沸点にあるうちに自らの会社の経営権を高値にして売り飛ばすのだ。買い手は、よりによって、あれほどまでに非道だと糾弾された「サン・シティ」創業者だった……。
ニュースを知ったジョージは、約10日後の2月21日金曜日に緊急声明を発表する。自分はノーミスとの関係を解消した、と。この一件が、人気デュオ「ワム!」解散に最終的に繋がる。
Careless Whisper』の成功などでソロ志向を強めるジョージ・マイケル。
対して、サイモン・ネピア=ベルはワム!の成功が頂点にあるうちに『SUN CITY』でのイメージ低下を挽回したいソル・カーズナーに最も高い値段で売り付けようとした…そう当時は報じられたのです。
ジョージ・マイケルは急ぎ、サイモン・ネピア=ベルと手を切り、「サン・シティのワム!」を阻止する方向へ動きますが、すでにワム!のイメージは崩壊していました。
ワム!の受難は続く。
彼らはマンチェスター出身のインディ・ギター・バンド、ザ・スミスの楽曲〈PANIC〉のテーマとなり、揶揄される。
ザ・スミスは、「ポップ・ミュージックこそ労働者階級が言いたいことを言う唯一のチャンスだ」と発言
~(中略)~
当時英国で主流となっていた芸能的音楽に不満を抱く若者達から熱烈な支持を集める。


マンチェスター出身のMorrisseyとJohnny Marrを中心とする〈The Smiths〉は、英国労働者階級、そして多くの有名バンドを生み出したマンチェスターという街の発言者として振る舞います。
彼らは。チェルノブイリ原発事故直後の1986年5月にレコーディングしたシングル〈PANIC〉で、「HANG THE DJ(DJを吊るせ。ディスコを焼き払え。忌々しいDJを吊るし首にせよ)」と歌った

ザ・スミスは『PANIC』で、「俺たちの人生に何ひとつ寄与しない音楽を流し続けるラジオDJどもを路上で吊るせ」と歌い、物議となり、説明を求められます。
この時にザ・スミスはワム!の名前を出したのです。
モリッシーとマーが、BBCラジオ国営第一放送を聞いていると、ディスクジョッキーがチェルノブイリ原発事故の大ニュースを伝えた。そのすぐ後に彼がワム!の能天気なポップ・チューン〈アイム・ユア・マン〉を選曲したことにモリッシーとマーは落胆したというのだ。チェルノブイリが大爆発した後に、何くわぬ顔で呑気にワム!かよ、と……。彼らは英国のメイン・ストリームの音楽の軽薄さに呆れ果て、その憤慨こそが〈PANIC〉創作の発端となったと説明したのだ。この逸話を聞き、ワム!に憧れる若者が一人でもいるだろうか。
これこそ、まさに「フィクションから、ノンフィクションへ」、「ファンタジーから、リアルへ」という「1986年のルール改正」が如実に現れた事件だと思う。
このザ・スミス側の説明によりワム!は呑気な時代の象徴として過去に追いやられてしまい、一方のザ・スミスは87年に解散した後も伝説のバンドとして扱われ続けていますよね。
……ただ、その後のモリッシーの数々の問題発言や行動を知っていると、モリッシー自身も80年代的人間の象徴だよな、なんて思う。特に現在の老人モリッシーは。そして、ザ・スミスにおいて86年以降の感性を先取りしていたのはモリッシーではなくジョニー・マーだったのだな、とも。今年の頭にも二人は喧嘩してましたが。
ワム!は前時代の象徴的な存在として嘲笑と論破の標的となった。
1986年6月28日。
自らの音楽生命に迫るあらゆる危機を察知したのだろう。ジョージ・マイケルは、23歳の誕生日を迎えた3日後、100万人の応募者の中から選ばれた7万2000人の観客を集めた英国ウェンブリー・スタジアムで頂点を極めたまま、素早くワム!を終わらせる。ワム!の音楽を愛する僕は、この日こそが「80年代ポップ」の終焉を迎えたお葬式だったと思っている。無邪気で、キャッチ―で、世界中の誰もが口ずさめる能天気さの結晶だったアイドル・グループ、ワム!。しかし、わずか数年前に世界中の10代女子の熱狂を集めたその陽気さは、チェルノブイリの爆発事故以降、完全なる否定の対象となった。
1986年6月9日に発売された『The Edge of Heaven』のプロモーション内でワム!は解散を発表。発表から三週間と経たない28日にウェンブリー・スタジアムにファン7万2千人を招待した解散コンサートを遂行しワム!を終わらせます。同じウェンブリー・スタジアムで行われた「LIVE AID」から一年も経っていません。
西寺郷太は"この日こそが「80年代ポップ」の終焉を迎えたお葬式だったと思っている"とワム!の解散した86年6月28日を語ります。
そして、ワム!とともに「LIVE AID」に参加し80年代の英国ポップを代表したバンドも時を同じくして時代の転換に直面します。〈Culture Club〉はBoy Georgeの薬物問題での逮捕により86年に解散し、〈Duran Duran〉も86年に分裂しています。
この1986年が、西寺言うところの"ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い"と併せて"「80年代ポップ」の終焉"であり、日本における「洋楽」の聴かれない時代の始まりということになるのでしょう。永遠に『Last Christmas』で止まったまま。

そして今、"前時代の象徴的な存在として嘲笑と論破の標的となっ"ているのがモリッシーとなっていることに時代の流れも感じます。


この記事群の最後は『ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い』の序章部分「はじめに」より。
「昔は、老若男女、皆が知っている曲があった。今はチャートや売り上げで『ヒット』していても、共有している曲は少ない」。そんな声を聞くことがあります。
90年代に入ると、それまで「ポップス」の中心地として世界に文化を発信していたアメリカで、いわゆる「万人受けの音楽」を否定する勢力が増加しました。ジャンルが細分化され、例えば黒人たちが独自のアイデンティティを究極にまで追求したヒップホップや、白人青年層にはシアトル出身のスリー・ピース・バンドであるニルヴァーナを筆頭に、商業主義の否定を掲げたオルタナティヴ・ロックが台頭しました。「ポップス」の位置が相対的に下がり、そもそもはカウンター・カルチャーであった彼らこそが、メインストリームとなる時代が訪れたのです。
日本では90年代以降、こちらも独自の成長を遂げ、「邦楽しか聴かない。洋楽は歌詞がわからないから」という世代が増えました。
僕は、世界各地で独自の音楽文化があるのは喜ばしいことだと思います。猫も杓子も世界中すべての人々がアメリカやイギリスの音楽を愛する状況が素晴らしいとも思いません。日本人が日本で生まれた日本語の楽曲を好きになるのは当然のことだし、何から何まで「西洋に追いつけ追い越せ」の精神に取り憑かれすぎるのもおかしい。邦楽しか聴かない世代が生まれたことは、独自文化の熟成として喜ぶべきことだと思います。
しかし……。自分が少年期、青年期に歩んできた80年代、90年代という時代を思い返せば、「日本の音楽だけ聴く」という考え方は「閉じた」ものとして、とてももったいなく感じてしまうのです。
~(中略)~
ただし、その感動にたどり着くには一定の訓練とレクチャーのようなものが必要なのです。
いきなり現代の日本人が古文や漢文で書かれた名作を読めないように、いくらわかりやすく親しみやすい存在であることが第一義とされるポップスにも、多少の解説とおすすめする教師のような存在が必要なのです。
メディアの責任は重大です。これほどまでに世界中の情報が増えたにもかかわらず、かえって選択肢が閉じてしまうのは、我々大人世代が次世代に対して「簡単なもの」「すぐに理解できるもの」だけを提供し続けた結果かもしれないと……。食べ物で言えば「やわらかいもの」「甘いもの」だけを与え続けたら、少しでも硬いもの、辛いもの、苦みのあるものなどは「まずい」として感じられない味覚に育ってしまいますから。
分断をいかに乗り越えるのが2020年代という時代の課題なのは誰もが同意するはずです。
その時、必要になるのが"「簡単なもの」「すぐに理解できるもの」だけ"もしくは"「やわらかいもの」「甘いもの」だけ"を口にするのをやめる覚悟なんじゃないでしょうか。このあたり、ポップ・ミュージックという本来、口当たりの好いものから初めてみてもいいと私も思うのです。


リンクしてあるのは、Michael Jacksonの『Heal The World』。