「映画とは戦場に様なもの。愛・憎しみ・アクション
・暴力・死。つまり感動」
(「気狂いピエロ」からサミュエル・フラーの言葉 )
あらすじ
芸術好きなフェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)は、妻と娘の三人暮らし。最近、テレビ局をクビになる。風呂場で娘に「エリー・フォールの美術史」のベラスケスの部分を読み聞かせていたが、妻の実家のパーティに行くよう急かされる。パーティでは知り合いに再就職を頼めと言うので、乗り気でない。娘にはベビーシッターを頼んだと言う。
パーティでは俗な話ばかりで退屈する。そんな中、サミュエル・フラーという映画監督と出会い「映画とは」と聞く。フラーは「戦場に様なもの。愛・憎しみ・アクション・暴力・死。つまり感動」と答えた。疲れたフェルディナンは、飾られたケーキを女性にぶつけ、自宅に帰った。帰るとベビーシッターのマリアンヌ(アンナ・カリーナ)は、元カノだったため、住まいまで送りそのまま泊まってしまう。
あくる朝、目覚めると部屋には、鋏で首を刺された死体があり、銃が何丁もあり、武器密売の場所だと知る。もう、後には引き返せないと思ったフェルディナンは、マリアンヌとずっと行動を共にする決心をした。しかし、マリアンヌは「愛の奴隷にはならない。一生愛するなんてできない。ただの愛だから♪」とシャンソンを歌う。そこへマリアンヌの情夫が帰宅した。マリアンヌは情夫をビンで殴り、二人はそこを車で逃げ出す。
マリアンヌはパリを脱出し、ニースからイタリアに行きたいがお金がないという。ガソリンが無くなり、スタンドでは踏み倒す。途中、事故車があり、自分達も焼死したと見せかけるため車を一緒に焼却する。その後は徒歩で河を渡り、森を抜ける。そしてドライブインで休憩中の高級車を乗り逃げする。「直線道路をまっすぐ走るのは単純ね」とマリアンヌが言った為、フェルディナンは高級車を海に乗り入れ捨てる。
フェルディナンが神秘の島に行こうとマリアンヌを誘いしばらく無人島で過ごすことにした。食料は釣りと狩りで賄う。フェルディナンは読書三昧と日記付けや小説の制作。二人は幸福感を味わい、このままずっと一緒に居ようと思い合うが、時が過ぎれば変わる。お互いが好きなものと望む者を言い合うと。マリアンヌは「花、動物、青い空、音楽・・」フェルディナンは「野心、希望、モノの動く様、偶然の出来事・・」。やはり、お互いに思うことは違い理解しえないことを感じる。マリアンヌは島を出たいと言い出す。
金がないと出られないと観光客の米兵の前で、寸劇を演じチップを貰い、お金を奪い逃げる。林の中へ来るとマリアンヌは「私の運命線はとても短い」と嘆く。そんなのはどうでもいいとフェルディナンは「君の体の線が好きだ」と言い、二人はデュエットで歌いながら踊るように歩く。今度は船に乗り港に向かう。
港に着くとマリアンヌは、以前フェルディナンと逃走したとき使った赤い車の所有者のギャングに見つかってしまう。ギャングはマリアンヌが奪った車に乗せていた5万ドルを返せと迫ったが鋏で刺し殺してしまう。一方、フェルディナンはギャングの仲間に捕まり、マリアンヌの居場所を言えと拷問されるが居場所を言って解放される。解放後、フェルディナンはマリアンヌを探したが見付からない。
しばらくしてトゥーロンで、二人は再会する。そこでマリアンヌから兄フレッド(ダーク・サンダース)の現金強奪の手伝いを頼まれる。フェルディナンを拷問した2人のギャングから5万ドルをだまし取るというもの。マリアンヌは、2人を銃殺し5万ドルは奪ったが、兄と称するフレッドはマリアンヌの恋人だったのだ。フェルディナンを騙した2人はボートで、島に逃げてゆく。怒ったフェルディナンは、島に渡り2人を銃殺し、自分はダイナマイトで自爆する。
感想など
自由のない、しがらみ生活にうんざりした男が、元カノの悪女と再会し、逃避行の旅に出る。車の強奪を繰り返し、一時は幸福感の絶頂を味わうが、女が裏切り殺害。自分も自爆するというもの。ショッキングだが、どこか漫画的でもある。生きるとは何か、愛とはなにかを詩や歌、言葉や映像・色彩をコラージュで表現している。
タイトルやセリフ中の「気狂いピエロ」から思い浮かぶのは、太宰治であろう。「人間失格」の大庭葉蔵は自我意識が強く自分を隠すため、周囲に道化を演じていた。最終的にはアルコールや薬物中毒で廃人となる訳だが、映画の主人公フェルデナンも自爆する。太宰は作品にボードレールやランボー、ヴィヨンなど引用している点も共通していると思う。
マリアンヌが歌うシャンソンが素晴らしい。また、マリアンヌの野性的な目や行動。カモシカのようなしなやかな肢体が躍動して舞うシーンには魅せられる。フェルでナンは、虚無的だがどこか頼りなく憎めないところが面白い。マリアンヌは「私は感情で見詰める。思想は感情の中にあるのよ」とフェルディナンの虚無的な観念を圧倒する。また、好きなものや希望するものは、「花、動物、青い空、音楽・・」と「野心、希望、モノの動く様、偶然の出来事・・」とお互いの感覚には隔たりがある。
精神と行動の葛藤を視覚的にコラージュして観客に語りかけている映画ではないかと思った。だから物語性や説明を少なくして、色彩や風景、危険な事物や奇抜な行動、絵画や漫画、シャンソンや詩の朗読で人間の喜怒哀楽を表現した。映画の中で、サミュエル・フラー氏が言う、「映画とは、戦場に様なもの。愛・憎しみ・アクション・暴力・死。つまり感動」の理論を忠実に散りばめて見せている感じだ。
マリアンヌは、5年前にフェルディナンの彼女だったが別れ、フェルディナンは金持ちのイタリア人の娘と愛のない結婚をしてこどもも出来た。マリアンヌはその後、武器密売商の情婦になっていた。娘のベビーシッターを頼まれた際、フェルディナンと再会し、フェルディナンと意気投合の逃避行となる。マリアンヌの人間性は、フェルディナンへの愛には限界があり、フェルディナンを捨てて別の男に走ってしまう。裏切られ、絶望したフェルディナンは、マリアンヌを殺して「おれはバカだ」と自爆してしまう。
フランスの象徴詩人のボードレールの「悪の華」、アルチユウル・ランボーの「地獄の季節」などをオマージュするような引用が目立った。ランボーは詩論で「詩人は長期間の破壊的で計算された錯乱によって見者となる」と述べている。まさにこの映画は錯乱を体現しているようだ。ラストはランボーの「永遠」という詩がナレーションで語られる。
「永遠」(「地獄の季節」から)
永遠は私たちのもの
海とそして太陽
(訳は字幕から)
映画の、人間の愚かさ悲惨さが生命の輝きを賛歌しているようだ。
GALLERY
タイトル フェルディナンは娘に美術史を読み聞かせる
パーティに行くのでベビーシッターを頼んだ パーティで映画監督と語る
パーティが嫌でケーキを投げつけ帰宅する ベビーシッターが元カノで自宅へ送りそのまま泊まる
元カノの情夫が戻り、二人は逃避行を決行 逃走車を事故車と共に燃やすことにする
高級車を海に捨てる 島で暮らすこととなる
一時的には幸福感が得られた しかし、マリアンナは解り合えないという
私の生命線は短いとシャンソンをデュエットする 以前の情夫の仲間の小男と会う
マリアンヌは小男を挟みで刺し逃げた フェルデナンは小男の仲間にマリアンヌの所在を聞かれる
フェルデナンはマリアンヌと出会う 兄と称するフレッドに手伝いを頼まれる
ギャング一味の大金をだまし取る マリアンヌは大金のバックをよこせと言う
兄ではなく恋人で、フレッドとマリアンヌは逃走 怒ったフェルデナンは2人を射殺
フェルデナンはダイナマイトを顔に巻く そして自爆する