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かさぎ画廊ぶろぐ Gallery Kasagi Blog

鎌倉と横須賀にあるかさぎ画廊。歴史と伝統のある小さな画廊ながら世界中で企画展を開催したりとちょっとユニークな画廊の日々を紹介

かさぎ画廊は、強瀬淨眞(コワセジョウシン)という厳めしい名前の

洋画家に巡り合いました。

 

強瀬さんは、女子美術大学を卒業し武蔵野美術大学大学院で修士

課程を修了した後20数年の期間にわたり、イタリアルネッサン期の

聖母子などを描いてきました。

 

 

 

7

 

なぜ仏教徒なのに宗教画を描いてきたのか、

 

 

強瀬さんの、油絵とテンペラの混合技法とは何か、西欧の絵画の

ルーツを追求してきた画家に日本のルーツである日本神話を描いて

頂いたらどうなるか

 

 

 

~など興味深いことをYouTubeにまとめましたのでご覧ください。

 

ブログ 強瀬淨眞の正体?

 

https://www.youtube.com/watch?v=wWQqISB6ZTM&t=4s

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11月27日(土)より、女流画家5人によるグループ展『五媛展』を鎌倉パークホテルにて開催します。

コロナのリスクも収まった今、芸術の秋を

堪能してください。

 

『五縁展』は1981年より始まり、今回は10回目となります。

田村能里子や入江一子などその時代の巨匠

5人を選んで行われていました。

 

 

 

 

 

今回からは将来性を重視してメンバーを

大きく入れ替えます。

 

 

 

 

5人のアーティストを順に紹介します。

 

 

吉屋敬は,

活動の拠点をオランダから日本に移し、

五媛展のために来日され参加致します。

欧州の絵画を修得したうえで日本人のアイデンティティを滲ませる独特の画風は

”ニュールネッサンス”と称されています。

 

 

 

 

 

 

安住小百合は、多摩美術大学大学院出身の

日本画家であり,

巨匠加山又造の薫陶を直々に得た、斬新さと品格が心地よく同居する作品は

多くの人に親しまれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

小林真理江は、多摩美術大学を卒業後、東京藝術大学大学院を修了しプロ転向した

若手のホープです。

平面絵画の他、モザイク作品にも取り組み

エレガントで温かみのある作品は、

フランスのモザイク雑誌でも大きく取り上げられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

ニューヨークで活躍中のミッシェル・サカイさんは、入国手続きが厳しいため

来日を諦めましたが、

現代アートのニューアライバル7点の他、

かさぎ画廊のコレクション未発表作品などを

展示します。

 

 

 

 

 

 

強瀬淨眞は、イタリア・ルネッサンス期の

テンペラ画を改良した混合画法で描く

聖母子像に加え、

観音菩薩像などにチャレンジした作品を披露します。

 

 

 

 

 

展覧会は11月27日(土)から12月5日(日)午前11時より午後6時迄開催してます。

 

初冬の鎌倉の海はとてもきれいです。

 

五媛展を鑑賞した後は、ホテルの目の前に広がる由比ガ浜の景観も楽しんでください。

 

 

 

 

 

かさぎ画廊

笠木英文

 

 

 

 

 

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かさぎ画廊の鎌倉ギャラリーでは今日から

今永清玄先生の個展が開催されます。

東京オリンピックの本番と同じ日の開催です。

 

 

これは、DMのデザインの一部

 

 

今永先生は大分県の別府の生まれで、

多摩美術大学油絵専攻を卒業した後に、

プロの画家を目指し昭和会展で日動火災賞受賞や、上野の森美術館大賞展大賞を受賞するなど若くして頭角を顕します。

 

若かりし頃の今永先生 恩師(故)荻太郎先生と

 

 

当初は、キュービズムに傾斜した難解な作品を発表していましたが、

文化庁派遣藝術家在外研修員としてタイ王国のバンコクに留学する前後からは

無垢なフクロウの図を好んで描くようになります。

 

 

 

 

フクロウは、知恵の神様や、深い森の知者と呼ばれています。

日本では不苦労(苦労がない)とか、ホウホウ(宝宝)と鳴くことから

縁起の良い鳥として親しまれています。

しかし、今永先生のフクロウは、写実ではなく、可愛らしく単純に描かれても、アニメとは違う存在感があります。

 

 

 

今永先生は、フクロウをなるべく単純化して描くことによって

より抽象性と精神性を高めた画面が生み出されます。

 

 

家に飾ると、そこには神が祀られたような

神聖な空間が形作られます。

 

絵を買った方からは、フクロウがいつしか

家族の心のよりどころになっていったと

聞きます。

 

 

 

今永先生は全国の津々浦々の街を訪れ、既に100数十回の個展を開催しました。

 

何年か後に同じ場所に戻ってくると、当時の幼稚園児は中学生になり、女学生であった娘さんが先生に我が子をお見せするなど、

フクロウを通じた時の流れと、多くの人々との絆を実感するできるのが、絵描きとしての

喜びだと感じる様になりました。

 

 

画家としての喜びを語る今永先生

 

 

それで今回のかさぎ画廊の個展では『時をみまもるフクロウ展』という副題を付けたのです。

 

 

 

 

 

鎌倉かさぎ画廊での個展は、8月1日(日)まで開催されています。

 

 

 

画廊のすぐ前には真夏の由比ガ浜海岸がきらめき、裏手には長谷観音や大仏があります。

是非お越し下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

久しぶりのブログです。

こんなに無精しているとフォロアーがいなくなっちゃいますよね。

 

 

かさぎ画廊が扱っているアーティストの中で、飛び抜けて尖がっている濱中大作さんが銀座の奥野ビルで個展をやると言うので、 コロナの緊急事態宣言下のなかで銀座に出かけてきました。

 

 

 

 

 

 

久しぶりの銀座の街は結構にぎわっていましたが、中国からの団体客に乗っ取られた頃

に比べると、気のせいか落ち着いてオシャ

な街になった感じがしました。

 

 

 

奥野ビルはそうした表通りからちょっと外れた場所にある古いビルです。きらびやかな銀座のなかで正真正銘のレトロなので、  

かえって目を引きます。

 








 

 

ここには、1階から6階にかけて小さなギャラリーやブティックが数十軒、所狭しと並んでいます。過去80年間にここで個展をした画家の中には後に高名になったひとも

そうでなかった人もいます。

濱中さんはその中でも最も小さいギャ

リーで個展を開きました。

 

 

 

 

 

 

 

濱中さんの絵は、オリジナルを描き、それを自分が持つリトグラフ工房で、ほんの数枚だけリトグラフにして発表してます。なかにはCGを使って作図した作品も混じり、異才を感じました。

 

 

 

 

この女性は可愛いけど、ちょっと不気味で 魅力的です。

 

三葉虫みたいな生物に囲まれて海底で眠る 女性はポセイドンの娘かもしれません。

 

 

 

リトグラフ効果で、昔の印刷物のような感じと、最先端のアートの狭間のような絵を制作してます。

随分手間暇がかかっているはずですが、

効率とか採算という言葉は濱中大作さんの

辞書にはない様です。

 

 

 

 

 

 

立体像も出品してありましたが、少女が持っているのは、リトグラフのプレスのローラーみたいです。

 

困っているのか、泣いているのか、はたまた無なのか?

仏教的な雰囲気すら醸し出す不思議な表情でですね。

 

 

 

濱中大作の個展はひっそりと始まりいつの間にか終わりました。

これを見た人には

鮮烈な残像を残したに違いありません。

 

 

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かさぎ画廊は、鎌倉パークホテルと協力して

 ”世界に挑む7人のアーティスト展”という

絵画展を開催しました。

これは鎌倉芸術祭の一環行事として位置づけされました。

準備段階では開催が危ぶまれましたが、こういう時こそアートの力で,皆んなに元気に元気になってもらいたいという気持ちで、開催にこぎつけました。

 

絵画展の始まる全日11月7日には、トークイベントを開催し、コロナ感染対策として参加者人数制限をしましたが、約150人の参加者が集ってくれました。

 

 

 

 

この絵画展に併設して、笠木次郎吉作品の横浜市歴史博物館収蔵記念講演を行い、博物館の吉井大門学芸員より”幻の画家 笠木次郎吉の絵の秘密に迫る”というお話を伺いました。

100年以上経過しても、昨日描きあがったような色彩の謎は今後も研究が進むものと思われます。

 

 

 

 

 

 

学術的な講演後、笠木次郎吉のファンでもある国際的なピアニストの鮫島明子さんが、友情出演くだださり、会場はエレガントで和やかな空間に様変わりしました。

 

鮫島先生有難うございました。

 

 

 

 

 

それに続き、参加の画家より、出品作品に寄せた思いを語っていただきました。

 

 

下の写真は、東京藝術大学大学院を卒業し、上野の美術館大賞展で大賞受賞し、その後

ドイツに留学、帰国後は山形に移り住み、

東北工科美術大学で教授を務める末永敏明先生です。

 

 

 

 

 

 

 

 

多摩美術大学大学院を修了し、加山又造の薫陶を受けた安住小百合先生は琳派の系譜を引きながら、持って生まれた感性を生かした

品格の高い作品で多くのファンを魅了しています。

 

 

 

 

 

 

 

東京藝術大学大学院を修了後、片道切符でアメリカに旅立った出口雄樹さんは、現代アートの本場ニューヨークで6年間、日本画家による現代アートを追求し、国際的な実績を残し昨年末に凱旋帰国しました。

若手の美術愛好家に絶大な人気を誇り、

星野源の新アルバムのジャケットに出口雄樹の作品が採用されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

張媛媛さんは、中国大連の美術大学を卒業後、エンカウスティークという蜜蝋に顔料を混ぜ亜麻布に浸みこませて描く古代絵画技法を研究する横浜国立大学の赤木教授に弟子入りするため留学生として来日、東京芸術大学及び大学院に進み、昨年の上野の森美術館大賞展で大賞を受賞した絵画界のシンデレラです。

 

 

 

 

 

 

トークイベントには出席できなかった先生をかさぎ画廊のスタッフが紹介しました。

 

 

この絵は、大分に在住の今永清玄先生によるフクロウ図です。道端の草花にも神が宿るというアミニズム的な、素朴で心に訴える作品を描く画家です。

 

 

 

 

 

 

齋藤将先生は学会の会議で出席できませんでしたが、200号(横2.6メートル 縦1.94メートル)の大作2点を展示して、存在感を発揮しました。

 

 

 

 

 

 

真打は中京地域で絶大な人気を誇る斎藤吾朗先生です。

ルーブル美術館で、モナ・リザの公式模写を許された画家は世界で2人だけだそうです。

一人はシャガール、もう一人が斎藤先生です。

熱田神宮の宝物殿には、斎藤先生が描いたヤマトタケルノミコト伝説の絵が、常時展示されています。

世界中で武勇伝や、芸術の神髄に迫るお話で会場は若いと感動で包まれました。

 

 

 

 

 

 

 

トークショーが引けた後、お客さんは展示会場に移り、これら7名の作家の力作を鑑賞されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日8日から23日まで絵画展は開かれ

1000人以上のご来客がありました。

 

 

なお、併設して開催された”笠木次郎吉

横浜市歴史博物館収蔵記念展”については追ってご報告いたします。

 

有難うございました。

 

 

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ブログでは、かさぎ画廊ヒストリーの連載中ですが、

たった今若い女性画家が新しい歴史を作ってくれました。

 

新型コロナウイルス禍の暗雲を晴らしてくれた小林真理江の個展”こころの庭”を、

個展に来れなかった人にも、わざわざ遠くから来てくれた人にもお伝えします。

 

2020年小林真理江個展のリーフレット表紙

 

小林真理江さんは、茨城県水戸市の出身、

小さいころから絵の大好きな少女が、

有数の受験校から絵を求めて上京、多摩美術大学に入学します。卒業後は社会人として働きましたが、絵の道を諦められず東京藝術大学大学院に進みました。

修士課程壁画を修了してからは、迷いなく

プロとして絵の世界に進みます。

数々の公募展やコンテストで受賞を重ねる

一方、銀座三越で個展を開くなど、若手アーティストとして目立つ存在となりました。

当時かさぎ画廊では、ニューヨークでのグループ展”NEXT JAPAN”計画中だったので、

小林真理江さんにも出品してもらいました。

 

2016年ニューヨーク かさぎ展 NEXT JAPAN 出品作

”古代の魚 ビルケニア”

これがその時の出品作品です。

 

 

この展覧会を機に、ニューヨークで活躍中の現代アーティストのミッシェル・サカイさんとの2人展をかさぎ画廊で開くことができました。

 

2016年 日米現代アーティスト2人展のリーフレット

 

 

その後も、いろいろなグループ展にはいつも

楽しい絵を出品してもらいましたが、この度

初めての単独での展覧会が開催できました。

 

鎌倉のギャラリーの入り口です。

その裏には、由比ガ浜海岸が拡がっています。

 

 

では、作品を観てみましょう。

 

””メリーゴーランド

 

小林真理江さんが大好きで、「心の赴くまま描いた」というメリーゴーランドです。

 

 

当初はもっぱら上記のような建造物などを

よく描いておりました。

 

 

”観覧車”

 

最近では、動物や人物や音楽をモチーフにした絵が加わりました。

 

”おなかの中”

 

 

”夏の公園”

 

 

”朝焼けの森”

 

 

”予感”

 

”つがい”

 

 

”夕暮れのピアノ”

”夕暮れの少女”

 

「どうしてそのように描きたいものが散漫なのか、私の心の中は何なのかと、展覧会の度に考えて、少しずつ一番の関心事は変化しているものの根っこは同じだ」と気づきます。

 

”走る”

 

「無意識に感じている『物質』や『現象』としての存在の儚さと、目の前で触れるエネルギーのコントラスト(あるいは騒々しい取っ組み合い)に興味があるのではないかというのが現在の自分だと感じるようになりました。」と小林さんは述べています。

 

 

 

”風”

 

「同時に、静かに広がる『頭上の宇宙』に

ホッとする気持ちを描いている時もあります。」

 

 

 

”エントランス”

 

「今回の展覧会では、そういった自分自身でもとらえきれない私の心の庭の様子を、できるだけそのまま並べてみることにしました。」と言ってます。

 

”ティータイム”

 

茶室に飾られた ”時を巡る船”

 

 

 

小林真理江は、今回の展覧会直前にリトグラフにチャレンジしました。

自分の大きな作品を、気軽に多くの人に

所有してもらうにはどうしたら良いかという課題への回答だと考えました。

現代アーティストで、江東区深川でリトグラフの工房を経営する濱中大作さんのサポートを受け、絵師、彫り師、摺り師の三位一体の江戸版画と同じコンセプトの作品を実現しました。

 

 

 

 

下の写真の左端の2点が、記念すべき小林真理江の手によるリトグラフ作品です。

額付きで2万4千円の”本物のリトグラフ”を

実現できました。

 

 

濱中大作さん、ありがとう!

 

 

FRP製オブジェ ”橋猫”

 

今回は、石川県山中温泉鶴仙庵に設置した

モザイク作品のオブジェ『橋猫』を十分の一に縮小したFRP製の立体作品も出品しました。

実物をご覧になりたい方は、GO TO TRAVELを活用して山中温泉に行ってください。

 

モザイク立体作品”光の街の観覧車”

更にこうしたモザイク作品も出品しました。

 

 

 

コロナ下の個展も無事にスタートできてほっとする表情の真理江さんです。

 

 

下は、10月11日に92歳を迎える画廊オーナーの笠木和子です。

皆様と小林真理江さんに御礼申し上げます。

 

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かさぎ画廊は何故かインドと深い繋がりがあります。

 

 

かさぎ画廊が40年以上お世話になった田村能里子先生は、若かりし頃インドに居住し、

インド人女性をひたすらデッサンし、それをバックボーンにして、日本で最も人気と実力を

備えたアーティストになりました。

 

田村能里子の初期の作品、安井賞応募品?田村能里子が描くインドの女性

 

私のおばあちゃんは、夫、笠木治郎吉が他界した後には、インドの神話の絵などを描き、

当時横浜にあったインド商館に売って生計を立てていました。

 

治郎吉の他界後インドの金持ちに絵を売って生計をあってた私の祖母。

 

 

私の母、笠木和子(画廊オーナー)は、ヨガに傾倒し、サイババが住んでいたインドの

リシケシという聖地をしばしば訪れました。

 

田村能里子の個展には、自分もインド人になりきる笠木和子

サイババの弟子入りを目指した?笠木和子(画廊オーナー)      サイババもびっくり?

 

年に一度のらくだ市、1万頭のラクダが集まる

笠木和子同行のカメラマンが撮影

 

 

 

かくいう私は、仕事でもプライベートでもインドに引き寄せられ、都合160回以上インドに

渡航しました。

 

現在でも、私は副業でインドの会社のコンサルタントを務めております。

ビジネスでは、デリー、バンガロール、チャンナイ、プーナ、グジャラートなどの工業地帯

に行きますが、プライベートでは、アジャンタ、エローラ、マドライ、カジョラホなど、ヒンズーや仏教の聖地を訪れます。昨年は念願のラダックを訪れました。

 

 

西チベット、ラダックのガールフレンド達と

 

アートの関連では、最近ではインドの友人が、日本人のアーティストの絵に関心をもち、

時々絵を買ってくれるようになりました。

この絵は、入江一子先生が、インド最大の部品メーカーであるマザーサンの会長から依頼を

受けて描いた”マザー&サン(母と子)“というタイトルの絵です。

 

入江一子さん95歳の作品、現在104歳現役

 

これは同じく、インドのクライアントから注文を頂いて斎藤吾郎さんが描いた作品で、

ロンドンの別邸のマントルピースの上に飾られています。

 

斎藤吾郎さんのユーモアあふれる油絵

 

昨年は、インドの駐日大使夫人が日本画を習いたいというので、かさぎ画廊が世話に

なっている日本画家安住小百合先生にお願いし、絵の家庭教師になっていただきました。

 

かさぎ画廊 鎌倉ギャラリーにて

 

主人のインド大使サンジェイ・バルマ氏には、私の長年の日印自動車産業協力促進が

評価され、親しくして頂いています。かさぎ画廊が ”天空の曼荼羅展“ を鎌倉で開催した際に、

鎌倉のギャラリーにお越しいただきました。

 

 

話は前後しますが、かさぎ画廊は2014年にインドのニューデリーで本格的なグループ展を

開催し、日本の画家の作品をインドに紹介しました。

 

 

インド側でこの企画を支援してくれた国際的に活躍する学芸員のアシュナ・ジェーンさんです。

この人はとても生真面目な人で、『税金の申告などは厳格に法律を守ってください。私の信用が

台無しになりますから。』と釘をさされ、素直に従ったので、インドには多額な税金を払いました。

合法的でもいろいろな節税方法があった様ですが、経験不足でした。

 

 

厳しいキュレーターのアシュナさんと

 

アシュナさんは、企画運営や展示に関しては凄腕であり、ニューヨークやロンドンの一流画廊の

展覧会のようなセンスのよい設営をして、大物の政界人や財界人を招待してくれました。

しかし、販売には淡白で、絵は全然売ってくれませんでした。

 

 

世界最大の2輪メーカーHEROの副会長

 

 テレビ局のインタビューに答える私

 

 

レセプションには次々とお客様が

 

手伝ってくれた友人とその奥さんたち。

 

 

多くの新聞社やテレビ局が報道し、大勢の方がご来場し、おまけにインド美人にも囲まれ、

ゴージャスで楽しい展覧会でしたが、商業面では散々でした。

 

おまけに日本に戻ってきた作品にも消費税が掛けられ、二重のショックを受けました。

 

大いに反省が残った。海外発デビューでした。

 

しかしその時は、2年後にアートの本場ニューヨークにチャレンジするとは

思いもよりませんでした。

 

 ガンジス川のほとりで

 

かさぎ画廊

笠木英文

 

 

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ある画家の『銀座の画廊でなければ一流ではない』みたいな言い草にカチンときた和子は『銀座なんてなにさ』と発奮した。

ダウンタウンブギウギバンドの“港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ”と云う曲が大ヒットした頃だ。

当時私たちは横浜の端っこの金沢文庫に住んでいたが、蓮田や沼に囲まれ画廊をやるには自然過ぎた。

“ヨコハマ・ヨコスカ”とはいかなかった

そこで和子は、金沢文庫から朝比奈峠を越え、鎌倉に進出した。

観光地の鎌倉なら人が大勢来ると目論んだ。

その期待は半分当たって、半分外れた。

ともかく住居も鎌倉に移し、ギャラリーも併設した。

 

 

 

かさぎ画廊の守り神”花を持つフローラ”

和子の二女の義父細井庄司氏の作品

 

横須賀の画廊には馴染みのお客さんも多いので、そちらは常設にして、鎌倉はイベントの時だけにオープンすることにした。

鎌倉での最初の展覧会は、池田満寿夫“エロスの世界”という

魅惑的なネームミングにした。

果たしてオープン早々から大勢のお客さんが、海辺に新設したギャラリーに来てくれた。

 

 

気を良くした和子は、続けて西村功の個展を開催した。

パリの街角を描く素晴らしい画家だった。初めてその名を聞く

人も、その絵の詩情に心を打たれた。

 

 

鎌倉ギャラリー開店の年に、和子はシルクロードの絵を描く当時既に著名な入江一子に三顧の礼をもってお願いして、第一回目の個展を開かせてもらい、その後個展だけでも7回に及んだ。

入江先生は現在104歳、テレビでも再三紹介される超有名人である。

 

 

 

翌年には、五媛展と云うお目出度そうなネーミングを考案して、回を重ね、後に入江一子と人気を二分する田村能里子や、神戸文子、東郷たまみ、島田鮎子などの有名画家を招待した。当時は

新人の箕浦田鶴子や安住小百合の名を広めることもできた。

 

 

 

とりわけ田村能里子の個展は数多く開催できた。田村は中国西安の唐華賓館はじめ、国内外での壁画制作などで大きな評判を得て、日本で最も人気のある画家にのし上がっていった。

 

 

鎌倉芸術劇場で催した田村能里子トークイベントでの対談シーン

 

 

怖いもの知らずの和子は、高間惣七、織田廣喜、竹久夢二、山高登、土屋正男、など絵画界の重鎮の企画展を精力的に開催した。

鎌倉市長だった小島寅雄の個展を開催し、建長寺で講演会を開くなどユニークな企画も次々と打ち出した。

 

 

 

 

 

そうした中で、高橋美則のようなドル箱スターも誕生した、

内輪では高橋先生の個展を『忠臣蔵』と呼んでいた。

年末に興行をすると必ず大ヒットするからである。

 

 

ずらずらと展覧会のことばかり述べても飽きるといけないので、ここで笠木和子のファッションショーをお見せしたい。

和子は、画家の展覧会を盛り上げるためには、衣装を凝らし、 企画にふさわしい身なりをすることに心がけた。

若き日の母和子の姿を見てやってください。

母は現在91歳で、家では山姥(ヤマンバ)の様な格好をしているが、外出前の15分で変身する。

 

 田村能里子の個展にはいつもサリーを纏って接客をした。

サリーの着付けは私の友人のインド人の奥様だった。

 

 

 

 

 

 

左から二番目は、小説家森瑤子、その数年後早世したため、和子は、田村能里子と協力して、鎌倉芸術館に1000人以上のファンを招いて追悼イベントを開催した。

 

左は、女優、浜美枝。右は笠木和子。

 

 

和子の2台目のパートナーホンダアコード。

仕事の必要性があって、50歳になって運転免許を取得した。

自動車教習所の最多受験回数を記録した。

今もその偉業は破られてないそうだ。

4台めのインテグラは20万キロ走って車の方がリタイアした。

一年後和子も観念して、免許を返上した。

91歳になる今も,横須賀の画廊に通っている。

 

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ともかく横須賀に画廊が誕生した。

 

当時ホンダの新入社員になったばかりの私は浜松にいたが、

特別長期休暇を取って母の画廊の開店の手伝いをした。

 

 

ホンダの新入社員ころの筆者

 

画廊の内装などはできていたが飾る絵がなかった。

知り合いの画家も少しはいたが、高校の美術の先生に風景画を

描いてもらった。

美術年鑑を見て手当たり次第にお願いし悉く断られたが、協力してくれた画家もいた。伊藤画伯と云う人で、岩場に荒波が砕けている絵だった。

書画骨董を持っている親戚からも絵を借りて飾った。

近所に美大に通っている節子さんという女の子がいたので、

その絵も借りた。コスモスの絵だった案外うまかった。

 

まだ足りないので私も絵を描いた。

炭鉱夫の絵で『働く人』と名付けた。

ところがこれが真っ先に売れた。

30年後にそのお客さんが画廊に見え記念として私に返してくれ、今も大事にしている。

 

「働く人」笠木英文 フォービズムっぽい作品

 

油壷を描いた風景画も描いた。

 

今思えば、随分無手勝流な画廊だった。

 

「昼下がりの油壺」笠木英文

 

開店に漕ぎつけた日の夕方、気持ちが緩んだのか酷い胃痙攣に襲われ道端で七転八倒した。

 

県会議員だったか小泉純一郎が開店祝いに花束を贈ってくれた。そのおかげか後に総理大臣になった。

『絵筆のバトン』にその写真もあるが、小泉純一郎の文字は

白抜きにした。何かとうるさい昨今なので、その息子などに迷惑が及ばない様にと配慮したつもりだ。

 

 横須賀にオープンしたかさぎ画廊と笠木和子。

 

 

しかし、母和子のバイタリティと云うか、度胸の良さと云うか、2年目には島田章三とその師匠熊谷九寿先生の展覧会を

開いてしまった。

島田先生は後に芸術院会員になられ、日本のキュービズムの先駆者として日本の洋画史に燦然と輝く大家であり、その師匠

は洋画界のレジェンド、熊谷九寿画伯であった。

 

 

国画会の重鎮、熊谷九寿先生の近影

 

どうも熊谷先生が近くを散歩していたときに、ほっかむり姿で肖像画を描いていた和子の姿を覚えており、その女性が画廊を開いたというので開店に駆けつけたようだ。

そこで和子がすかさず出品のお願いをしたらしい。こう云う

人を『怖いもの知らず』という。

熊谷先生は、弟子で当時は新進気鋭であった島田章三や、高橋美則などにかさぎ画廊への応援を要請した。

 

島田章三の出品作

  

また翌年には“香月泰男遺作展”を開いた。香月泰男は「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞した近代絵画を代表する画家であった。その遺作展がどうして横須賀の小さな画廊が開催したのか、銀座の画廊の間でも話題になったようだ。

 

笠木和子(香月泰男遺作展にて) 

 

こうして何とか画廊がなんとかスタートできたのは、母和子の

背水の陣の戦いとそれを支えてくれた人たちのお陰であった。

 

 

それでも、地方都市横須賀の無名画廊の新米女画商には悔しい

思いは随分あったようだ。

自伝『絵筆のバトン』の物語はそのくだりから始まっている。

 

 

 

縁や運にも恵まれて、いくつかの展覧会をこなした和子は、しばしば銀座の画廊を回って、売れている画家の調査や画廊の運営の仕方などを見習った。

ある時和子は、舞妓さんの絵がテーマの個展に出合い、こんな素敵な絵を横須賀の画廊にも飾ってみたいと思った。ちょうど画家の●●✖雄氏は多くの訪問客に囲まれていた。

訪問客が途切れた機会をとらえて、和子は大胆にも「私は横須賀で画廊をやっているものですが、先生の絵を是非扱わせていただいと思いまして・・・」と切り出した。が、「ぼかぁ~ね、銀座の一流画廊にしか出さないんだよ。横須賀のかさぎ画廊? 聞いたこともたないなぁ」と言って渡した名刺をそそくさにポケットにねじ込み、事務所に引っ込んでしまった。今思えばその先生の方にとって当然の対応だったと思うが、これが笠木和子に火をつけて

しまった。

その数日後、ある縁があって和子は時の寵児でピカソとも親交があったという東郷青児画伯に気に入られ、ちょうど始まる二科展に案内されることになる。

 

 

女性に優しい東郷青児先生

 

 

 東郷青児が描く女性像

 

黒塗りの車で迎えられ、和子は東京都美術館に向かうと、そこには二科会の下院たちが直立しで閲兵式のような会場に和子は東郷青児氏にエスコートされ入っていく。

その列に並んでいた●●✖雄氏は驚愕してしまう。「な・な・なんであの女が・・・?」と云ったかどうかわからないが、慌てたにちがいない。

その直後かさぎ画廊に●●✖雄氏から電話があった「かさぎ画廊さんですが、気に入った作品があれば言ってください。どんなのがよろしいでしょうか?」などと云ってきた。

和子は「おそれいりますが、うちでは一流の画家しかいただきませんので」”ガチャン“

大人気ないと言えばそれまでだが、この一件で笠木和子の進撃がはじまる。

 

続く

 

かさぎ画廊

笠木英文

 

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 女画商・笠木和子の半生を綴ったノンフィクション『絵筆のバトン』が発刊されてから、早くも3年経ちましたが案外根強い

人気があり、再販の要望も出る様になりましたので、

改めて紹介します。

これは、かさぎ画廊の歴史とも言えます。

 

 筆者 細井聖(私の妹の夫)アマゾンでも買えます。

 

笠木和子(私の母)横須賀市の旧家に生まれ、途中の戦争の時期を除いては、何の苦労もない恵まれた幼少時期を過ごします。

 

米酒薪炭菓子卸、雑貨荒物鯉雛人形、銘茶乾物結納一式、呉服反物・・・スーパーマーケットの走りです。 

 

ところが、和子はまだティンエージャーの時に、私の父笠木力造と駆け落ち寸前の騒ぎを引き起こした挙句結婚します。

 

 

 

当時力造は横須賀で肖像画の工房などを経営し数人の画家も雇い商売は順調でした。 さらに力造は版画の輸出などにも着手しましたが、病のため志半ばにして早逝します。 和子31歳、子供3人、貯金なし、残ったのは借金~という3重苦のシングルマザーの人生が始まります。更に翌年には和子を陰に陽に支えてきたお姑のヨシが他界します。

 

 中央は私の祖母ヨシ、左が母和子、右が筆者 英文

 

 

姑も亭主もいなくなった後に、肖像画画家たちは若かった和子をないがしろにし、売り上げを着服していることが判明、問い詰める和子に開き直る始末、遂に和子は大爆発!全員を解雇してしまいます。和子は悪人を退治したような爽快感を覚えたのはつかの間、これからどうやって生活していくのかと途方にくれます。

 

しかし、ここからが和子の真骨頂。

なんと自分で肖像画を描くという暴挙にでます。美術学校も出ていない和子は、いきなり難しい肖像画を描きだします。

この肖像画は、絵絹を木枠にピンと貼リング、礬水(ドーサ)と呼ばれる膠(にかわ)にミョウバンを混合した水溶液を平たんに塗り、特殊な筆を使って薄めた油絵で描くという特殊技法です。なにより難しいのは、肖像画は実物の人物に似ていなくてはだめです。

 

 

初めての作品は、似ても似つかないしろもので、お客さんは憮然として帰ってしまいました。和子は似ないと絵は売れず、子供にご飯を食べさせられないという危機感だけで必死に絵を描きました。 根を詰めて描く仕事は体力的にも過酷であり、家で腹を空かせる子供たちを待たせ、納品してお金をもらえるまで夜遅くまで絵を描くのはやるせなかったと思います。

 

ところがここに転機が訪れます。転機と云ってはハッピーなものでは無かったのです。大家より突然の立ち退きの要請でした。

普通の人間なら、ここで挫折してしまう所ですが、和子はここで

俄か画家をやめて、画廊を始めるという大博打を打つのです。

まだ社会人一年生だった私は、画廊というのは何をやる仕事なのか見当もつきませんでした。

 

 

これがかさぎ画廊のスタートでした。

時は1973年

ここから笠木和子の大進撃が始まります。

 

 

 

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