前回の続き
10月13日 大雨恐ろしく降る 午後晴れ
の記述から始まるこの日は緊迫した1日である。
今日も飯がうまくない。1行目から感情のくすぶりがある。
昼飯もすぎて、午後二時ごろから天気が少し直りかけてくる。
律は風呂に行ってしまう。
母は黙って枕元に坐っている。
子規の精神状態がにわかに変になってくる。
「さあ たまらんたまらん」
「どーしやう どーしやう」
いつもの様な逆上が始まるのかと恐怖すると
ますます心乱れ
「たまらん たまらん」
「どうしやう どうしやう」
と連呼する。
母は静かな言葉で
「しかたがない」
誰かに知らせるため電信を打ってもらいに
母に行ってもらうようにする
母は車屋に頼むという。
子規は直接行ってくれ。50歩100歩だという。
そういった自分の心の中は、我ながら恐ろしかった。
さあ静かになった。
左向きに寝たまま硯箱を見ると
二寸ばかりの鈍い小刀と
二寸ばかりの千枚通しの錐がある。
自殺熱がむらむらと起こる。
次の間に行けば剃刀がある。
しかし悲しいことに今は腹這うことも出来ない。
やむなくこの小刀でも喉笛を切断できぬことはない。
錐でも心臓に穴をあけて死ぬことはできる。
恐ろしさが勝つので決心がつかない。
死は恐ろしくない。苦しみが怖い。
病苦でも耐えられないのに、死にそこなってはと
思うのが怖い。
小刀を取ろうか取るまいか考えているうち、
しゃくりあげて泣きだした。
母が帰ってきた。
ここから数行調子の変わった、やや滑稽味を帯びた文章が続く。
そのあと、古白曰来 とあり、
その下に、自殺を試みようとした道具の
小刀と千枚通しが、筆でスケッチされている。
古白というのは、ピストル自殺した子規の従弟である。
その古白が「来いと言ってる」のだ。
その下には、それを使って自殺しようとした道具を
味のある筆致で描いているのだ。
ここで「仰臥慢録」はとぎれ、「仰臥慢録二」とした部分が
はじまる。
「仰臥慢録二」には、10月13日の残りの部分がある。
その内容は簡単で
しゃくりあげて泣いているところへ電信で読んだ人が来て、
いろいろ不平をもらしているうちに夜に入って、
心はればれとしてくる。
というものである。
妙な構成であるが、
この日は子規にとってよっぽど切迫した日だったのだろう。
この日の記述以後、子規は変わってくるのである。
10月15日
死を売り物にしていると、後にあれほど罵倒していく中江兆民の
「一年有半」(兆民が食道がんを患い、医師に余命を聞いたところ
1年半と告げられたことから、このタイトルをつけて筆を起こした)
ついても格調高く、批判している。
兆民居士は喉に穴が一つあいたという。わたしは腹、背中、臀とはいわず
蜂の巣のごとく穴があいている。
1年半の寿命というのは、わたしと同じだ。
ただあなたには美というものが分かっていない。
理があれば、あきらめはつく。美が分かれば楽しみができる。
杏を買ってきて妻とともに食うのは楽しみには相違ないけれど、
1点の理がひそんでいますよ。
「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処
何の理屈か候べき」
自分の葬儀をコミカルに語り、家人や見舞客を思いやるようになってくる。
10月29日 曇り
の記述で「仰臥慢録」はいったん中断される。
翌、明治35年3月10日 月曜日 晴れ
から再開されるが、「日記のなき日は病勢つのりし時なり」
のコメントがある。
この日から麻痺剤服用の記述がある。
8時40分麻痺剤を服す
10時に包帯を取りかえるが、この日腹部の穴を見て驚く。
穴というのは小さい穴かと思っていたらがらんどうだった。
「心持悪くなりて泣く」
痛みを止めるために麻痺剤を飲むようになったのか、
時間をきちんと記録している。
しかし病状が悪化したのか、この日記は3月12日で中断される。
再び日記は6月20日から始まるのであるが、麻痺剤服用日記と
あるように、麻痺剤を服用した時間の記述がほとんどである。
この日記は7月29日で終わる。
この間、子規は「病床六尺」を5月5日より公表しはじめたのである。
そして、これは死ぬ2日前まで続く。
一般に公表していることもあろうが、病状はさらに悪化しているにもかかわらず、
「仰臥慢録」に比べて落ち着て、滑稽味を増した文章になっている。
公表している物のため、妹の律への不満をあからさまには書けない。
7月16日から7月20日までと7月24日に病人看護について論じているが、
落語の小言幸兵衛が小言をまくし立てているようで、滑稽味を帯びている。
さらに7月26日には、またも中江兆民に対し教え諭すように
病気について論じているところなどかなり滑稽だ。
兆民居士は、死生の問題についてあきらめがついたように見えるが、
あきらめがついたうえで天命を楽しむという境には至っていないね。
ややわかりかけて来たようにも思えるが、まだ十分にわかっていないね。
もう2,3年病気をしてごらん。今少しその境地が分かるかもしれない。
子規というのはたぶん座談の名手で、集まってくる見舞客は、
子規の談義を聞くのも面白かったのではないかとおもえる。
「仰臥慢録」と違って題材も家庭内を中心とすることでなく、広く世間に題材を取ったり、
死期近くなってきたためか過去の思い出も多く出てくる。
どうでもいいようなことも記されているが、ときおりドキリとするほどの一文や、
美にいきなり出会うことがある。
6月2日に記述にこういう部分がある。
余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。
悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、
悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であった。
モルヒネの服用にもよるのだろうが、8月10日の夜にはこんな夢を見ている。
梅も桜も桃も一時に咲いている、美しい岡の上をあちこちと立って歩いていて、
こんな愉快な事は無いと、人と話しあった夢を見た。睡眠中といえども暫時も
苦痛を離れる事の出来ぬこの頃の容態にどうしてこんな夢を見たか知らん。
しかし病苦は子規が死ぬまで去らなかったようだ。
「病床六尺」の最後の記述。
(9月17日 死ぬ2日前である)
俳病の夢みるならんほととぎす拷問などにだれがかけたか
悟ったようでも猛烈な痛みの前には、そんなものは吹き飛んでしまうのが人間だろう。
ただ、死ぬ14日前の9月5日には途方もなく美しい文章が残されている。
暑く苦しい1日が暮れ、隣の普請の大工左官の声も聞こえなくなり、茄子の漬物に
舌打ちならした夕餉の膳を押しやった時、向島より1鉢の草花が届く。
緑の広葉並んだ間から、7,8寸もある真っ白な花がゆらめいている。
夕顔である。床の間の鴨居に天津から送られてきた樺色の旗2流が掛け垂らしてある。
そこに夕顔を置くと、また違った趣がある。
「くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆらく、
立つは誰、ゆらくは何ぞ、かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔」
子規は夕顔の花がとても好きだったと思える。
子規の病勢が相当進んだ3月末、友人(弟子)たちが交代で子規を看病することをきめる。
9月10日ごろより麻痺剤も聞かない状態となる。
9月18日、朝から容態悪化。眼の放せぬ状態となる。
この日、高浜虚子が付き添っていた。
夜中、子規がよく眠っていると、気を許し、
ちょっとうとうとしていた。
その刹那、子規の寿命は尽きた。
9月19日 午前1時頃。
虚子が仲間に子規の死を知らせようと外の飛び出すと、
17日の月が中天にかかったいた。
子規逝くや十七日の月明に
子規の辞世 3句
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあわず
をとといひのへちまの水も取らざりき
この回終わり