幸村もういいやろ~という感じやろけど、ここまできたら最後まで…
第二次上田城合戦で、徳川秀忠軍を撃退し、関ヶ原にも遅参させて、真田の名を天下に知らしめたけど…
関ヶ原の戦いで、形勢的にみれば楽勝のはずの石田三成の西軍がぼろ負け
昌幸、幸村にしてみれば…東軍の半分の軍勢を、真田だけでやっつけたのに…三成なんしょんマジかうそやろ~
これで、天下は、ほぼ家康の手中に…
徳川に二度も逆らった、真田親子は当然切腹
と、思いきや…東軍についた兄 信幸が我が命にかえても…と助命し、親子は、高野山九度山に幽閉
(信幸は信幸で、幕府の陰湿なイジメに堂々と対抗し、真田家を明治まで残す礎を築いた)
この処遇は、当時の武家にしてみれば、切腹よりも辛かったのでは?
ましてや真田親子は、負けたと思ってない
長い九度山での暮らしは、不便この上なかったようです
とうとう、昌幸はここで亡くなりますが、亡くなる前に「あと、三年のうちに徳川と豊臣の大乱がおこる、その時こそ、大阪に入り、徳川家康の首を取るつもりでいたが…」と、その秘策も幸村に語った
昌幸のこの肖像が一番好きやね
だが、その秘策は、徳川をとことん追い詰め、その名を天下に轟かせた、ワシにしかできん幸村では無理じゃと…真田昌幸…無念
そのうち、親父が言ったように、徳川と豊臣の手切れとなり、幸村は、大阪方からの誘いで入城する
決して、死に場所を求めてではない
必ずや家康の首をとる覚悟…真田親子悲願の入城である
大阪城に集まった武将達もそうそうたるメンバーで、幸村は兄が徳川方にいたことで、城方にはいまいち信用されておらず、城内の武将にもスパイが多くいて幸村を陥れようとしたようだ
しかし、後藤又兵衛、毛利勝永など、同じ匂いのする幸村に一目置きサポートする
大阪冬の陣は、有名な「真田出丸」で攻めてきた大軍に圧勝
あまりにも作戦がハマりすぎて、真田丸の周りは敵の屍だらけ、幸村は堀にハマって動けなくなった兵士がかわいそうになって鉄砲を撃つのを止めたほどだったという
この時の、なかなか攻めて来ない徳川の大軍相手の駆け引きとかも昌幸譲りで面白い
ここは、家康の予定通り?大砲で本丸を狙い、淀君をビビらせて適当な講和に持ち込む
大阪方の浪人武将にとっては面白くなかったやろうね
家康は、大阪城の内外の掘りを埋めて再戦
家康は、手強い幸村に信濃一国やるから、こっちにこい兄や甥が待っておるぞ…と誘いますが、一介の牢人を一大将までしてくれた秀頼様のご恩に報いたいたとえ、日本の半分をもらっても揺らぐことはないと言いきり…
家康も、それでこそ真田(昌幸)の倅!と感心したそうな
さてさて、大阪夏の陣
裸城となった大阪城では籠城できないが、地の利はこちらにあるし、指揮する武将も兵も士気旺盛
あとは、大将秀頼の馬印が戦場に立てば…なんとかなる
しかし、武運拙く肝心なとこで霧がでて作戦が上手くいかず、又兵衛討ち死に
しかも、この期におよんで最後まで秀頼でてこんやん
真田幸村もこれで最後と徳川軍に突撃
作戦通り、毛利勝永が敵の殆どを受け止め大善戦したお陰で、幸村は前衛を突破し、なんと家康の本陣まで詰め寄る
幸村も数騎の供も傷だらけ血だらけで、家康の首を取りに行く
これほど迄上手くいき、家康本陣の位置とか知るには、真田十勇士の影の力もあったと思う
小説「華、散りゆけど」では、本陣を蹴散らし家康の首を取ったが…それは…???
史実では、周りは敵だらけの中、何度も家康の本陣を襲ったが、家康から逃げられ…もう動けん…付いてきた供に末期の水を飲ませ、満身創痍で居るところを討ち取られてしまった
戦国最後の大戦(おおいくさ)は、真田幸村の名を天下に知らしめ「やるだけやった…これで親父の所へ堂々と逝ける」と思ったのでは…
敵方の伊達、島津などからは、あっぱれ真田日の本一の兵と讃えられ…
家康は、天下一の武将にあやかれと、幸村の遺髪を家臣に分け与えたそうです…
この戦いに参戦していた幸村の長男 大助も、齡13?で秀頼と供に自刃…
この話も、詳しく知ると泣かせる話です…
終わった~疲れた~
不謹慎やけど…六連銭に見えてしまうわ
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