近頃のブログ記事では、
「欲を貪るもの」と
「魂の欲求に生きるスターシード」
の違いについて
書いてきていますが、
スターシードの魂から
「欲を貪るもの」へ転身するものがいる
ということを目の当たりにし、
大きな衝撃を受けました![]()
(ライラからしたら転落と感じますが、
これは、立場によって
用いる言葉は違ってくると思います)
欲を貪ることしか
考えていなかったものが
「もっと全体のために
自分にも何かできることはないか」
という想いが淡く芽生え始めることで
魂を持つ者へと成長することがあるのは
知っていましたが、
その反対もある、というのは
なかなか、ショックの大きな出来事でした。
ライラからすると、
欲を貪ることで何が味わえるかといえば、
「足りない。もっと欲しい。もっと、もっと」
という枯渇感だけで、
その枯渇感だけを感じながら生きることが
苦しいと感じたり、
そろそろ、終わりにしたい、
と思わないのだろうか?
と疑問に思うのですが、
考えてみれば
昭和の時代は、
「貪欲」であることが善しとされていました。
戦後の貧しさから立ち上がろうとした日本人には
「貪欲」さがあり、
「貪欲」に何かを求める力=頑張れる力によって、
すごい勢いで経済成長を果たして
先進国の仲間入りを果たしたわけです。
その後、物質的に豊かになった後に生まれた日本人は、
「かつての貪欲さをもっていない」
「ひ弱な人間だ」
とダメ出しをされていた記憶があります。
「貪欲」って、
本当に読んで字のごとく
足りないという感覚=枯渇
と
もっと欲しいという感覚=貪り
の合体。
枯渇する感覚にまかせて
欲しいものに対して貪るように手にしようとする。
という人々が集団をつくると
どうなるかというと、
当たり前ですが「奪い合い」になります。
奪い合う人生が
ライラには、どうしても幸せには
みえないわけです。
しかし、近視眼的な物事の見方をすれば
自分を磨かず
良さげにみえるものを「奪う」
という発想の方が楽に生きれる
ようにみえるのかもしれません。
「奪い合い」というテーマに関していうと、
欲を貪る方々の
エネルギーの争奪戦は既に
始っているようです。
スターシードには、
宇宙からエネルギーが流れ込むため
欲を貪るものたちからターゲットにされやすくなります。
それは
「わたし、かわいそうでしょ」
という姿で恵を受けようとする姿の場合もあれば、
「お前はけしからん!」
と責めたて、無理やりにでも謝罪させるなどの形の場合もあります。
自分が貪るものになっていないか、
顧みることもさることながら、
貪るものにエネルギーを与えていないか、
それも、
間違えないようにしたいと感じています。
なぜなら、
貪るものにエネルギーを送るということは
貪るものを応援するということ、
それは、つまり、
そういった方々に社会的地位を与え、
わたし達の社会ルールを作らせることになり、
そうすると、
結果的に、
強者が弱者を貪る社会になることを
ゆるすことに繋がるからです。





