●昨夜3週間ぶりに英語会話のガッコへいったら真っ暗。

休みだったのを知らなかったのだ。大急ぎで会社に戻る。

月末だからね。あー無駄なことをした。

●1枚づつの映画広告にいちいち文章が書けるおいらは

なんなんだろうねえ。一体。だれも頼んでいないとおもうが。

 

今日から午前10時の映画祭で始まる「プラトーン」(=プラトゥーン=本当はプラトーンではない)

 

今は金曜日スタートになったんだ。

TOHO日本橋でやるんだが、劇場は4番とやや小さめ。

待っておればTOHO新宿でもかかるんだがそのときにまた行きたいと思うかも

しれんから先にいっておきたいのだ。

 

これは家にちゃんとしたブルーレイディスクも持っているんだが、

かならず劇場に見に行かなくてはいけない作品の1本であろう。

 

とにかくチャーリー・シーン、ウィレム・デフォー、トム・ベレンジャーの3人の芝居が

すごくいいんだ。

 

中でもとくにデフォーがいいんだ。いい人は早く死ぬという実生活でもよくあるシーンがこの広告の写真だ。

いい芝居をするひとなので最近のレジェンダリー(中国資本になった)などの陳腐な映画にゃできれば出てほしくない。

 

この劇に出てくる2人の軍曹のような人物がストーン監督のいたプラトーンに実際にいたというのだから

戦争は怖いねえ。

 

この作品、広告に寄れば東京3大 松竹洋画系劇場では70mm上映だったのに

横浜ピカデリーは70mm表記がないのでおそらく35mm版上映だったんだろうが、

なぜだろう?考えられるにはこの時点で70mmフイルムが上映できる映写機が故障か何かで

使えなくなっていたという事なんじゃないかと思うんだが。

(横浜ピカデリーではスーパーマンなどをはじめずいぶんと70mm作品をみてきたおいら。今度

横浜ピカデリー看板特集でもやろうかとおもいます)

 

この映画は地獄の黙示録とかにくらべるとまたもうすこし話がリアルになっていて

南ベトナム人(アメリカの味方側)だろうと、兵隊はベトコン(南ベトナム兵だった人が北に寝返っているが、南に化けて米軍の側にいてレジスタンス活動をしてるという複雑で危険な存在の人たち。北の方がましと言う考えに変わった人たち=ベトコン=北ベトナム兵の事ではない)の可能性もあると、

ベトナム人を人間としてみていないというのがなんどか映像で出てくる。

実際に南の人間でも北のスパイもいたし、南の農民に化けている北の兵隊もいたので、どのベトナム人が

ベトコンか農民かなどということは米国人には区別が難しかったわけだ。この事情がわからないと、

映画の本質がやや伝わりにくいんだな。(朝鮮戦争とかも同じ)同じ民族同士の闘いに米国がかかわってくるんだから。

 

おいら最近は大戦ものよりベトナム戦争ものの方がやや好きかも。

でもあんまりないんだよね。ベトナム戦争映画って。

やっぱり負け戦だからだろうかね。

 

とにかくすごい映画の1本。

 

 

 

 

●ミー坊は1984年=20歳くらいのころに横須賀で当時30歳くらいだったピーターという米国海軍の人と知り合いになって

その人が最初に アイ ハヴ 2 ベリーバトンズ、ドゥ ユー ワナ スィー デム?

(おいらへそが2個あるんだけど、見たい?)

と言われて腹をみせてもらったら本当にへそが縦に2個あった!

何でなのか聞いたらば、実は1個はへそじゃないと、ベトナムでベトコンに竹の槍で刺された跡がへそのように見えるのだという。

(このときにナイフで切られた傷跡はスカーとしってたけど棒状のもので刺された傷跡が別の言葉だったんだが思い出せないなあ)

 

 

その後、そのピーターという白人は料理がすんごく得意と知った。

仕事は軍の料理人ではなくて軍の船の消防のインストラクターをやっていて、

船の中で万一火災が起きたときに火をみんなで消すらしいんだが、その訓練を受けていないと戦艦には乗れないということで、その

ティーチャーを横須賀のベースでやっているという事だった。

ハンバーガーの作り方を教えてもらいにピーターが借りていた北久里浜だったかの日本の家

にいったんだが、そこでなん百という白黒のベトナムの戦場の写真を見せてもらったことがある。

 

ピーターは家ではシェフの様な白い帽子をわざわざかぶって料理人の服まで着る。このような陽気な人があのような狂気で恐ろしい

ベトナムの戦場で闘っていたとはにわかには信じられなかったがベトナム戦争が終わったのが1975年だからまだ10年はたっていなかったんだなあ。それでハンバーガーの後でベトナムの戦場の話を聞いた。

 

17歳で海軍に入って19歳の時にベトナムに送られて大型の船に乗って後方にいられるのかとおもったら、

海軍でも陸上での戦闘部隊に配属になってしまったんだと。あそこはやばかったと。

 

 

 

 

1975年に19歳でまず腹を刺されてから気を失ったんだそうで、その後、ベトコンに両腕をジーザスクライストのように太い木の幹に木の杭みたいので、刺されてそこから大量出血していたが

それくらいでは人間は死なないそうでだいぶ経ってからアメリカ軍に発見されて助かったらしいけど もうすこしおそかったら

きっと死んでいたといわれたんだそうで、驚いたのはなんとその幹にキリストのように打ちつけられてぶる下がっている自分本人の写真を持っていたことだ。生きててヨカッターと思ったそうな。

(救出に来た兵隊が撮ったんだそうで、それで自分がどういう状態だったかを知ったんだそう)ベトコンには1人の兵隊にいちいちそんなことをする余裕があったんだろうか?

 

他の米兵が怖気(おじけ)づくようにわざわざそういった作業をしたんだろうかねとも思った。畑にカラスの死がいを吊るすように。

(この話の大分後でティム・ロビンス主演でベトナム戦争で腹を竹やりで刺される映画「ジェイコブス・ラダー」をみてびっくり

あんまりにもにたような話だったからだ)

 

1975年と言えばもう映画だと「ローラーボール」(いまみるとベトナム戦争=アジア人と白人の闘い=と本当にかぶるSF映画だな)

だとか「カッコーの巣の上で」(日本ではみゆき座のような場所での公開だったがアメリカではものすごいヒット

した映画なんだそう。カッコーは英語ではクークーと発音する)なんていう映画が公開されていた時分にまだベトナムで

闘っていた19歳がいたとはね。(ピーターがトムハンクスのペンタゴンペーパーズをみたら怒るわな。負け戦とわかってからも

17~20歳のアメリカ兵をどんどこベトナムに送っていたわけだから)おいらは小学校5年だった頃だなあ。

 

★当時FEN(米軍のラジオ)を聞いていると1975年に何があったかみたいなコーナーがあって、

大体最初は「どのような映画がヒットしたか」であるのでそれほど映画と米国人とは密接であるのだな。

 

 

 

 

刺された場所もナントカ村といっていたけど、フランス語の様なベトナム語の様な長い名前の村だったような。

この辺りにはまだ囚われの身になっていたり、MIA(エムアイエーと読むミッシング イン アクションの略

=戦闘中行方不明者=の事をこのように言う)

で白骨化した米国人がたくさんいるはずだと言っていた。

 

軍をやめてアメリカに帰ってもちゃんと仕事に付けるかわからないし、米国に帰りたくもないそうで、

そのまま海軍にはいるのだといっていたがさすがにもうリタイアしたと思う。

 

ベトナムは本当に美しい場所だなあと着いた時には思ったんだそう。(みんなそういうから驚く)

 

日本で当時ピーターというと、タレントの池畑新之助がピーターという名前で、

FAGGOT(FAG=ファグ=ファゲット=男性なのに女性の格好やしぐさをしてる人の事を英語でこういう=今はいい意味でも使われるらしいが当時は悪い意味でのみ使われていた言葉だ)

有名なファゲットでピーターと云う人が日本にいるよと教えたらびっくりしていた。

 

 

みせてもらった写真と云うのはこんなイメージのものが多くあって

景色とかは少なくてだいたいが兵隊の写真(こういう陸上の)だった。

カラーはなぜか1枚もなかったのは、もしかしたら米軍も戦場ではカラーのプリントまでは

機械を持ってきていなかったのかもしれない。白黒ならまーどこでもだれでもできるからね。

(この写真はアメリカのネットから)

 

M113(エム ワン サーティーン と発音する)装甲車が映っているものがあったなあ。アメリカってあんなにでかい

兵員輸送兼装甲車を何十台も遠く離れたベトナムまで輸送船で運んでくるんだから

驚くなあとおもったよな。

 

しかし1975年にこベトナムのこんな場所で闘っているよりも米国のシネラマシアターでローラーボールを観ていたほうが

まだ、やや健全ではあるね。・・・・。

 

 

20歳のころはよくいろんなアメリカ人にベトナムで見たびっくりするような事って何?

っていう質問をよくしていたからまだまだこういった話はあるんだ。