『特攻の思想 大西瀧治郎伝』草柳大蔵 | 弦楽器工房Watanabe・店主のブログ

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『特攻の思想 大西瀧治郎伝』
著者:草柳大蔵
(解説:鶴田浩二)
2020年8月10日・文春学藝ライブラリー
1972年7月・文藝春秋刊
1983年8月・文春文庫
(本書は文春文庫版を底本としている)

戦後に「ノンフィクション・ジャーナリズム」を打ち出し、ジャーナリスト・評論家として名を馳せた草柳大蔵(くさやなぎ・だいぞう)氏が、綿密な調査のすえ書き上げた名著。本書は、1974年の鶴田浩二主演の映画『あゝ決戦航空隊』の原案にもなっている。以前私は、この映画にいたく心を動かされて古本を入手したが、テーマが非常に重いためずっと読むのを先送りしていた。そうするうちに、今月、文春学藝ライブラリーから同書が復刊されたのを見て買い直し、ようやく眼を通したという次第。
「特攻」という非道な攻撃方法が、海軍内でどのようないきさつから生まれ、制度化し、敗戦時まで継続されたのか。不運にも責任一切を負わされる格好になった大西瀧治郎は、送り出した若者と遺族に侘びつづけ、涙を流し、何ら弁明を残さないまま、敗戦と同時に割腹した。戦後になると、価値観の変化から特攻を無意味な犬死だったとする世論が高まり、あわせて大西中将も「特攻生みの親」「暴将」「愚将」「狂人」といった数々の汚名を着せられることになった。
そういう状況のなかで、黙して死んだ大西の「特攻を送った側の論理」を明らかにし、「名誉回復はできないが、彼が「特攻決定」の立場に立った、あるいは立たされた、その思想的過程は回復したい。」というのが草柳氏の執筆目的であったようだ。

当時の状況を思い起こすのは何とも心苦しい作業だけれども、私は、熱い感動で胸一杯のうちに読了した。無批判な賛美、後世の常識からの批判、どちらにも傾かない冷静な眼を保った力作だと思う。感動したという言い方は不謹慎かも知れないが、あえていえば、無謀な対米戦において、戦局の好転を期待された大西中将の心の底にうずまく贖罪意識、その反動として行動に現れる強烈な意思の力に圧倒されてしまった。

太平洋における軍の一大拠点であったサイパンが米軍の手に落ちた後、いよいよ危機感を募らせた海軍の方々から沸き起こったのが、この特殊戦術の提案だった。大西が攻撃隊を編成する以前から、体当たり攻撃を採用すべしという集団的空気がすでに醸成されており、通常の戦法では無駄に飛行機を失うばかりだという焦りから来る勢力挽回の気風には大変激しいものがあった。飛行機のプロとして皆から信任されていた大西は、当初は返事を渋っていながら、次第に皆のその真卒な想いに同調して行ったーこの苦渋にみちた過程を、草柳氏は非常に丹念に追いかけており、当事者間の緊迫した雰囲気が生々しく伝えられている。
本書を読むとほぼ明らかと思うが、大西中将がフィリピンの航空隊の司令官として、遂には体当たり攻撃を受け入れ、以後きわめて積極的にこの作戦を遂行したのは事実にせよ、断じて彼は発案者というわけではなかった。もとより部下への愛情が厚く、若い命を散らせる特攻をみずから「統率の外道」とも評している人物だ。また、一般に大西瀧治郎こそが「生みの親」と見られてきたのは、海軍の上層で作戦の出所を曖昧にし、死んで言い訳のできない大西に罪を被せようとする人間がいたことが多分に原因しているようだ。具体名は挙げないが、同じ職業軍人でも、人間としての性根の違いが、事後の言動や処世術となって如実に現れ出ているように思う。
熟練したパイロットと飛行機と燃料が不足してくるなか、大西中将は特攻に志願する純粋な若者たちに一縷の望みを託した。山本五十六とならぶ海軍きっての合理主義者として、戦前から航空兵力の強化を唱えてきた大西であるから、捨て鉢なやり方ではなく、緻密に効果を計算した特攻が繰り返された。そして個々の戦闘単位で見れば、しばしば誤解されているが必ずしも戦果がゼロだったわけではない。だが結局のところ、大勢を動かすまでには至らず、沖縄、日本本土へのアメリカの攻撃が激化し、敗色はますます濃厚になって行った。

昭和20年4月、大西は台湾から呼び寄せられ軍令部次長に抜擢された。ここに来て彼は、海軍の主戦派の一人として奔走するようになる。和平による戦争集結をめざす鈴木貫太郎内閣の時代に、彼のような「徹底抗戦」を主張する人間が軍令部に入るというのは、妙な人事に見えるかも知れない。海軍大臣は和平派の米内光政。著者は「海軍部内の主戦派の不満を和らげるため」という豊田副武の証言を引き、これを「米内一流の"政治"」だったと見る。しかし、大西は知ってか知らずしてか、このまま和平などしては自分が見送った何百人もの若者たちに申し訳が立たないと考える。ついには最終手段として、日本人全体による抗戦(本人の言葉では二千万人による特攻)を訴えはじめる。

草柳氏がまとめるところによると、

「大西の「特攻発信」の目的は、
「短切なる時期に勝機をつかむ」
「勝たないまでも負けない」
「負けても、特攻発進があれば、国は滅びない」
の三段階に変化している。最後の段階では、「精神的亡国」の屈辱だけは回避したいと願っている。」

大西は玉音放送のまさに直前、つまり二度の原爆投下が行われ、ソ満国境でソ連が日本に参戦した後でさえも、この三段階目の考えを堅持した。閣僚に「二千万特攻」を提案し、それを実現するべく講和のひき延ばしを懇願しているのだ。軍事の専門家でなくとも、さすがに正気の沙汰として受け容れることはできない。大西中将へのレッテルの一つに挙げた「狂人」が、神風特攻隊の創設でなく、軍令部次長時代の硬直化した言動を指しているとしたら、残念ながら全否定できない面があるだろう。

主観的にはしかし、大西は気が振れているのではなく、彼なりの明瞭な論理、あるいは軍人としての職業倫理に従ってこうした態度を取ったと見ることができる。

「鈴木にあっては「天皇あっての国家」であり、大西にあっては「国家あっての天皇」ということになるであろう。」

と草柳氏は対比させる。
5月の大空襲で宮城および大宮御所が炎上したとき、鈴木貫太郎首相は長時間遥拝しながら涙ながらに低頭した。
以下、同じ頃と思われる、大西が妻に語った言葉。
「「こんどの戦争だって、はっきりはいえないが敗けるかもしれんしな。戦国時代には、どこの領主もみずから出陣して陣頭に立っておるよ。日露戦争のときも、明治大帝は広島の大本営にお出ましになり、親しく戦局をみそなわされている。それがいま、今上陛下は女官に囲まれて、今日なお家庭的な生活を営まれている。ここのところは、ひとつ陛下ご自身にお出ましになってもらわんと困るのだがなあ」
私は、大西夫人から懐旧談の一コマとしてこの言葉を聞いたとき、大西の決戦思想が鮮明になった感を受けた。」

録音テープでなく、夫人の回想(記憶)をさらに文に起こしたものであるから、実際の大西の言葉とは微妙にニュアンスの隔たりはあるだろうが、おそらく大筋では同じ内容の話を夫人にしたものと思われる。
国民は度重なる空襲と食糧難で、心身ともに疲れ果てている。軍事的には、原爆が投下されるはるか以前に白黒は決している。普通ならとうに降伏するべき状況が揃っているにも関わらず、無条件降伏の時期を先送りにしてしまったのは、元首にして陸海軍を統帥する天皇の、戦後の処遇という問題があるからだった。閣僚が降伏を躊躇しているうち、8月に入ってから15日の直前までにも、原爆、他の空襲を合わせ、夥しい非戦闘員が焼き殺された。天皇制国家をどう評価するにせよ、これはいかにして消そうにも消すことのできない歴史的事実だ。国の将来を見据えたはずの穏健な和平派にしてからが、一般国民の生命財産を最優先には考えていなかったと見ていい。

一方、主戦派の一人となった大西は、天皇を国家の上の超越者であると明瞭には認識していなかった可能性が高い。もちろん軍人であるから相応の敬意は払っていたはずだが、それ以上に、もっと経営の対象に近い形の国家をイメージしていたであろうことが夫人の証言から見て取れる。生前の軍組織のなかでこの種の発言はできないはずだから、身内から出た先の証言は、事実だとすれば貴重だ。

「彼にあっては、「国体」よりも「国家」の方が明瞭な概念になっていたと思われる。このように推論するのは、大西は特別攻撃隊を繰り出すことによって、彼自身の中に「国家」の概念を鮮明にしたと考えられるからだ。彼にとっての「国家」は、「零戦」や「月光」に乗って発進していった若いパイロットたちの、血と死によって支えられている。「国家」は法律上の、あるいは政治哲学上の概念ではなく、特別攻撃隊という具体的事実を触媒剤として成立する、具体的概念なのである。」

終戦間近の大西中将は、もう戦後日本の姿とか、国をいかにして復興させるかという風な建設的な視座を完全に放棄してしまっているようだ。あらゆる言動が16日の自刃に至る前兆に見える。軍令部時代の彼を突き動かしていたものは、著者が想像するとおり、自らが送り出した若い特攻兵の悲壮な雄姿であり、おそらく彼らの行為を通じてしか国家のあり方を想い描けなくなっていた。何か私には、志半ばでその身を散らせた若者たちの無念が、合理主義者・大西を狂信的な方向に突き動かしていたように見えてならない。何百もの霊が大西の頭に取り憑いて国の中枢の人間たちを凝視している光景を想像してしまう。
政治的には、たとえば米内海相の視野の広い知性が必要であるし、戦後日本への道筋を残したのも彼ら和平派の功績であろうということも理解できる。確かにそうだとしても、特攻の責任を一人背負って果てた大西中将の生きざまは、まったく別の意味で、後世の人間の倫理観に強く訴えかける素朴さと潔癖さを持っている。20世紀に生きた人物から、こうした真っ直ぐな情念の力を感ずることは珍しいように思う。

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戦時中の将官はスター的存在であったから、大西の自宅前には、町内の子どもたちが毎朝、三十人くらい集まってきたという。

「大西は、その子どもたちの頭を撫でながらひとりひとりに「正しい人間になるんだよ」といった。子どものひとりが、その言葉を聞いて「このおじちゃんはおもしろいことをいう」と、目を輝やかした。
「どうして?」大西が訊ねる。子どもは大西の笑顔につりこまれるように答える。
「たいていの人は"偉い人"になるんだよ、というのに、おじちゃんだけは"正しい人"になれ、というから」
大西は頷いていった。
「そうさ。正しい人になれば、自然に、偉い人になるんだよ。正しい人は自分でなれるが、偉い人は他人がしてくれるものさ」」
(第九章・p.267~p.268)