『小林秀雄 最後の音楽会』杉本圭司・著 | 弦楽器工房Watanabe・店主のブログ

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『小林秀雄 最後の音楽会』
杉本圭司・著

今月25日に出たばかりの本のご紹介。まだ読了していないので、内容については紹介の範囲に止めます。
文芸批評家・小林秀雄の知的生活の傍らには常にクラシック音楽のレコードが鳴り響いていた。家族によると、鎌倉の自宅にいる日は、ほぼ毎日、朝の執筆前とか夕方にオーディオを掛けていたという。彼は音楽評論家ではないから音楽や作曲家、演奏家をテーマに挙げて論じる事は稀だったが、著作と座談会、あるいは非公式でのふとした発言等をつぶさに拾い集め、音楽というものが文士小林秀雄にとって如何に信頼すべき精神的思索の伴侶であったか、そして生涯を通じ音楽から得続けたもの、求めようとしたものは何であったかを、時系列的に考察した労作だ。音楽面に主眼を置いた小林秀雄論は、私の知るかぎり同規模の本では過去に例がなかったと思う。

30年近く前に、私は小林秀雄に初めて興味を持ち、以後その鋭い感性に支えられた芸術批評に感動し勇気づけられて来た者の一人だが、そもそもの切っ掛けは、好きなヴァイオリニストであるメニューインの初来日公演について、彼が熱い感激を以て文章に起こしていたのを見たからだった。実は当時(1951年)の日本の名だたる音楽評論家たちは、この歴史的事件ともなるべきメニューインの生演奏を、技術面と音楽内容の双方からこぞって酷評した。その直後の、LP期に入ってからのレコード批評においては、オイストラフ、シゲティ、シェリング、グリュミオーあたりが芸術の使徒のごとくに絶賛され、メニューインはその次点か、酷い場合には一流奏者の枠外の扱いさえ受けた。
これは日本の知識人が、いまだ西洋クラシックを楽曲の外側から形式的に捉え、全身で音楽を受容できるほどの感性の柔軟さを欠いていたことを証する話と思われる。また大戦後はクラシック音楽のファンが大衆層にまで大きく広がった時期でもあった。1960年代の日本プレスのLPには、収録された全曲の楽譜が付いているものがあったが、奏者と同様に聴く側の意識も、異文化の芸術を懸命に外皮から模倣している面が強かったのではないかと私は想像する。それこそ、伸縮自在な至芸を見せる前世代のティボーやエルマンなら、レコードに楽譜など付けては商売上色々と不都合なことが起きるだろう。音色が深く、語り口に情味のあるメニューインも又、ヴァイオリンという玄妙な楽器と奏者の美的感覚が見事に一致していた前世代と土壌を同じくする音楽家だった。彼が1930年代に録音したバッハの無伴奏曲を、ステレオ期のシェリングやミルシテインのそれと比べてみると、みな器用には立ち回るようになったが、音楽に奉仕するべきヴァイオリニストの精神が急速に減衰しているのをどうしても聴き逃すわけに行かない。

戦争のために外来演奏家の公演が途絶え、10年以上もヴァイオリンの名器の音に飢えていた日本人の中で、この時小林秀雄は音楽の、ヴァイオリンの魔力の何たるかを全身的感覚をもって鋭く嗅ぎ取った。こうした緊迫した状況下では、専門の知識に囚われない素人の方が、肌身で芸術の核心に触れるのに有利な面があるかも知れない。もともと、演奏芸術家の社会的地位を支えている最たるものは評論家でも芸術大学でもなく、チケット代やレコード代を生活費から捻出してくれる一般の愛好家だ。物質面で貧しかった昔も、音楽体験の環境があらゆる意味で贅沢になった今日もこの根本の事情が変わらない以上、音楽家はいつの時代にも先ず聴衆の胸に訴える仕事をすることが肝要だろう。メニューインはどちらかと言うと、解釈の新しさや技術の完成度に拘る専門の聴き手よりも、市井の愛好家、観客の方に愛されたヴァイオリニストだった。小林秀雄は知識人風な冷めた分析によらず、あくまで心で素直に感応する聴衆の一人としてメニューインの熱演に接した。
「バッハだらうがフランクだらうが、曲目はもうどうでもいい事であつた」
「あゝ何んといふ音だ」
彼のような極度に頭の切れるインテリがまるで子供のようにヴァイオリンの音に酔っている文章を読んだ時に、私はこの人の音楽的感性と、自ら進んでそれを肯定しようとする意思というものを信頼する気になった。

本書によると、1982年の大手術後、身体が急速に弱ってレコードも聴けなくなった小林秀雄は、テレビでメニューインの演奏会が放映された時、寝室から居間に降りてきて夫人と二人でこれを鑑賞した。死の数ヶ月前の年の瀬だった。題名の「最後の音楽会」とはこの時の話で、文字通り彼がこの世で聴いた最後の音楽となった。宿縁とも言えたメニューインの音楽の体験を軸に、偏愛したヴァイオリンという楽器、モーツァルト、ブラームスなどを絡ませながら、著者は小林秀雄のいまだ語られていない音楽観を導き出そうとしている。小林、メニューイン双方のファンである私としては、彼の胸中に鳴っていた音に想いを馳せながらじっくりと味わいたい本だ。