災害報道 能登震災 産業安全 | 楽典詩人

楽典詩人

楽典に触発された詩、フィットネス、空手・武道、物見遊山、飲食

元旦の能登の震災以降、書きたいような書きたくないようなずっと迷っていたのがこのテーマです。

 

若年から中年のはじめにかけて産業安全の現場にかかわる仕事をしていました。

私が若い頃の木造家屋の建築現場では、大工さんが鉢巻きを締め、建築中の建物の周りには丸太を綱や番線で縛って組み上げた足場(抱き足場)がありそれに乗って作業をしていました。安全帯(命綱)をつけた作業員は皆無と言っていいくらいでした。最近の建築現場ではその規模の大小を問わず誰もがヘルメットをかぶり、腰に安全帯をつけ。金属製の枠組み足場が使われています。

 

この50年間の変化は驚くばかりで、事故の発生率も驚くほど小さくなっています。

この間の作業員、現場監督、安全管理の計画、実行をする方々の努力に賞賛をおくりたいと思います。

 

産業安全の現場でまず私が仕付けられたのは、現場の整理整頓服装・装備品の適切な保持危険を避ける行動様式などでした。

ヘルメット、作業服をきちんと着用することがまず初めでした。

 

回転しているベルトやプーリーなどは本来カバーがかかっていなければならなかったにもかかわらず、むかしの機械工場などでは調整、修理などでそれらが取り払われてむき出しのままというのがよく見かけられました。

そうした機械の動く部分に挟まれたり巻き込まれたりしないために、はだけた服装をすることは強く戒められていました。

女子工員は白い三角巾で頭を覆い(映画の「下町の太陽」で倍賞千恵子がそんな恰好をしていた気がする)、毛髪が事故の原因とならないようにしていました。

シャツや作業服の袖のボタンをきちんと留める、シャツの裾はきちんとズボンの中にしまい込む、ヘルメットの顎ひもをしっかり締める等でした。

 

こうしたしつけを受けたせいか、私はいまだにカジュアルな服装でもシャツの裾をズボンの外に出して着るのに抵抗があり、ズボンから出すのは暑い季節に半袖のTシャツをそうするくらいです。

 

所作、行動としては、転倒や墜落の恐れのある場所では、何かにすぐ掴まることができるよう決してポケットに手を入れないなどもありました。

 

こうしたしつけを受けた私から見ると、新聞、テレビなどの報道関係者の事故現場等での振る舞いは我慢のならないものでした。

ヘルメット、安全靴等が不可欠な場所にまるで芸能人のスキャンダルの取材に行くような恰好をして、立ち入りの危険な場所に平気で入って行き、それで事業者や作業員に批判的な報道をするなどあきれたものでした。

 

そうした中で最も記憶に残っているのが、普賢岳の火砕流災害です。火砕流での死者40人のうち最も多かったのがマスコミ関係者16人、その搬送のためのタクシー運転手4人と半数を占めていました。危険は分かっていたので、滞在が不可欠としても、最低限の人数の記者カメラマンに絞るべきで、無駄に多くの記者等がいたのです。その他の被災者は消防関係、警察関係などでしたが、マスコミが多数現場に入っていなければ消防、警察関係者の滞在はもっと少人数で済んでいたのかもしれません。

 

この事故以降は、マスコミも自分たちの社員の安全管理にようやく関心を払うようになった気がします。最近の台風報道では、テレビの報道者がコメントの前に「安全な場所からお伝えしています」というのが慣例になっています。それまでは臨場感を伝えるためにか無駄に風雨の中に立って報告をしていました。

 

今回の能登の震災の報道を見ると、報道関係者の服装・装備等はそれなりになってきたのかなと思います。

ただ産業安全の現場に長くいた人間から見るとどこか違うなと感じることがあります。

それは産業現場で見る、新入社員の行動に近い感じがするのです。OJTがまだ足りていないという感じです。

 

阪神淡路の大震災の時私は東京で勤務していたのですが、震災が発生してから1か月以内に3回神戸の震災現場に出先や関係各所の被害状況の調査等で出張しました。

 

1回目は、発生後一週間も経っていなかったので、神戸への陸路でのアプローチができず関空まで飛行機で行きそこから船で神戸港に着きました。

勿論ホテル旅館等はないので、寝袋を持って行き神戸の出先の事務所の床に寝袋で寝ました。

やはりもっとも貴重なのは水だったので、帰りに関空まで戻って、洗面所で手や顔を洗ったときはなんだか感動したのを覚えています。

 

街の倒れたビルや高速道路など東京でテレビで見ていたものを実物として見たのですが、テレビで分からなかったものとしては、街全体に粉塵が漂い、人々がマスクをして、公共交通機関がすべてダメなのでリュックサックを背負ってゾロゾロ歩いていたこと、火葬ができないためか、避難所の片隅や寺院の本堂わきなどに白い布をかけた多くの棺が並べられていたことや、そうしたことから街の中に線香の匂いが漂っていたことでした。

 

2回目に行ったとき(この時は神戸から北にずっと行った町に宿泊)、ある中小企業の社長さんと会って話をしたのですが、自宅が倒壊したので自家用車の中で寝起きしているとのことでした。50歳くらいの社員のことを心配している真面目そうな、ひ弱には見えない方でした。

 

3回目に行ったとき(この時は大阪の梅田近くのホテルに泊まり神戸の近くまで電車で行けたが、途中からはやはり海路)その中小企業の社員さんに会い、「社長は自家用車で寝起きを続けていたが体調を崩して死んでしまった。」と知らされてすっかり驚いていしまった。

その当時はまだその言葉はなかったが、今のいわゆる震災関連死だったのでしょう。

 

被災地の早い復興を祈念します。 ガンバレ能登!!