三河島から北千住まで、奥の細道旅立ち | 楽典詩人

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暖かくなってきたので、ウォーキングをしてきた。

 

三河島駅から北千住までを歩いた。

 

約半世紀東京(その近辺を含む)にいるが、一度も三河島駅で降りたことがなかった。

 

 

三河島駅については、現在65歳以上くらいの人には、多数の死者のでた列車事故のあったところとして記憶ににあるのではないだろうか。

 

田舎に住んでいた私も、少年時代の衝撃的な事故として記憶している。

今調べてみると、死者160人、負傷者296人というとんでもない事故だ。

 

ただ、私が子供だったころは、九州や北海道の炭坑の事故や伊勢湾台風など、多数の犠牲者が出る災害がしばしば発生していた。

もちろん、これまで私が知った最大の災害は東日本大震災だが。

 

三河島駅からすこし東に進んで、それから北上すると荒川区役所に出た。

区役所の前に小さな公園があり、そこにある池では何人か釣りをしていた。

東京23区の区役所前で自由に釣りができるはここだけではないだろうか。

 

区役所の東側には、都電荒川線が走っており、荒川3丁目という停留所があった。

 

 

この停留所のすぐ東側は古いレンガ造りの建物のある三河島水再生センターがあった。

我が国の近代下水道発祥の地だと書かれていた。

 

この水再生センターの上の人工地盤は広い公園になっており、多数の木々や池もあった。

 

池には白鳥も飼われていた。

 

 

この水再生センターの北側を東に進むと隅田川が流れていた。

 

 

隅田川の川沿いのテラスを下って、千住大橋のたもとについたが、そのまま橋を渡るのではなく、そこから進行方向とは逆の南千住駅に向かった。

 

南千住の駅の近くに江戸時代の処刑場があったそうだ。

その跡地には、日本の近代医学の基礎となった解体新書を訳すきっかけとなった、ここでの腑分けの記念碑があった。

 

 

千住大橋まで戻ると、橋の南側にある神社の境内に芭蕉が、奥の細道に出発する矢立初めの碑として

  ゆく春や鳥なき魚の目は涙 

の句碑があった。

 

 

そして、千住大橋を渡って、足立区側に行くと、そこにもやはり矢立初めの句碑があった。

 

 

荒川区と足立区が本家争いをしているように見えた。

 

どうも江戸時代は、この隅田川の両岸がともに千住と呼ばれていたので芭蕉がどちら側でこの句を詠んだか分からないのだそうだ。

 

そこからさらに北へ歩いて、北千住駅の近くにたどり着いた。

 

北千住をよく知っているのではないが、この半世紀の間に何度か来たことがあり、北千住で仕事をしていた友人とここで飲んだことも何度かあった。

 

ただ、最近の街の変わりようには驚くばかりだ。

すっかり、こぎれいな、オシャレな街になって、駅前の商店街もとてもにぎわっていた。

大学がいくつも進出してきて、若者も増えたそうだ。

東京芸大が進出したせいなのか、東京芸術センターという施設もできていた。

 

 

オシャレになった千住駅周辺の飲み屋街を歩いてみたが、どうも入る気になれず、私としては珍しく飲まずに家に戻った。