こんにちは。元主将の河村東哉です。私は今、後輩からいただいたかっこいいタンブラーを脇に置いてこのブログを書いています。
これがなかなか使い勝手が良いです。温冷両用で500ml入リますし、デザインも私好みです。また、すでに他の方のブログでも頻繁に出てきていますが、色紙もいただきました。
分量の多さもそうですが、内容もものすごく素敵でした。後輩のみなさん、ありがとう。
さて、卒業生ブログ最後の締めくくりは私が勤めます。大学4年間はすぐに過ぎました。こんな感じで人生もすぐに終わっていくのでしょう。
19世紀の哲学者であるポール・ジャネー博士の提唱した『ジャネーの法則』によると、0−20歳の体感速度と20歳~80歳の体感速度はほとんど等しくなるらしいです。
この1ヶ月間、多くの大人に尋ねてみましたが、「概ねそのように感じる」と答えた人が多かったように思います。
その法則が正しいのであれば、僕の人生は実質的に折り返し地点に来ていると言えるでしょう。
そのように考えると、あまりぐずぐずしていられないなという気持ちになります。今後もより一層、色々なことにチャレンジしていきたいです。
さて、すぐに過ぎてしまう人生において、誰しもに成し遂げたいことがあると思います。『幸せな家庭を作りたい』、『研究者として未発見の定理を見つけたい』などです。
そして、それらを成し遂げるためには、多くの労力を正しい方向に注ぎこむ必要があります。
本当にそれが好きなのであれば、労力を注ぎ込む事は容易でしょうから、特に重要になってくるのは正しい方向に注ぎ込むことです。
人生は思ったより短く、限られているものですから、何が正しいのかを自分自身で片っ端から確かめるわけにはいきません。したがって、他の人の経験から学ぶことが重要です。
もっと言えば学び続け、変化していくことが重要でしょう。なぜなら、多くの分野において状況は日々変化していくものだからです。
例えば、流行の服や音楽は頻繁に変化していきます。変化していくのにもかかわらず、ずっと同じようなものばかり作り続けてしまうと、あっという間に衰退してしまいます。
また、小学生はいつまでも小学生ではありません。高校生になっているのにいつまでも小学生のように扱われてしまうと、子供は大きな反発を覚えるでしょう。
ここまででどこまで納得していただいたか分かりませんが、他の人の経験から学ぶことが重要であるという前提のもとで、今回は私自身の経験を1つこの場で共有しようと思います。
私は今までの間、ありがたいことに多くの大人に教育的な指導をしていただきました。ここでいう教育的指導とは、主に叱責のことです。
特に小学生・中学生時は、僕が間違ったことを多くしていたため、学校の先生や両親から叱責をしていただいたことも多かったように思います。おかげさまで、大きな非行にはしることなく、ここまで生きていくことができました。
しかし、叱責という名の教育的指導には、「理屈によって動かない人を従わせる」という良い面があるのとは裏腹に、良くない面がありました。
その時期の叱責が私に与えた観念は、『ルールを守ることの絶対性』、『目上の人の言うことに逆らってはいけない』というものです。
もちろん、これらの観念が100%良くないわけではありません。決めたルールは基本的に守った方が良いし、自分よりも年上の人は僕よりも多くの経験をお持ちなので、正しいことをおっしゃる事が多いです。
しかし、僕の場合、これがいきすぎてしまったように思います。ある時期から、自分の頭で物事を批判的に考える事がほとんどなくなってしまったのです。
どんな不合理なルールであろうと、目上の人がどんな不合理なこと言おうと、それらを受け入れて、実践していました。その本質は共通していて、『目上の人に対するいきすぎた恐怖』です。
誰しもが目上の人と喋る時、特にそれが自分にとっての権威者であるほど緊張するものです。しかし、私の場合、大人と相対すると緊張し、頭が働かず、口も回りませんでした。
ただ、言われたことにイエスを言うことのみに注力していました。そうすれば、彼らとの会話が早く終わるものだと思ったからです。この傾向が、大学1年生の時くらいまで酷かったように思います。
幸いにも、大学2年時に心の仕組みを勉強し、その傾向に自覚的になったので、今では基本的にあまり緊張することなく会話をすることができていると思います。
それでも時々、中学時代の先生・両親に似たようなタイプの人間に出会うと、少しその傾向が出てしまうので、それを打破することが僕の今後の課題だと言えます。
断っておきますと、学校の先生や両親は必要性があって私を叱責してくださいましたし、そこに体罰等はありません。一貫して言葉による教育です。
そして、今回の内容で伝えたいことは、『叱責することは良くないことだ』ということではありません。
子どもの教育において、理性的に話しても聞く耳を持たないのであれば、ある程度『怒り』の感情を現して、叱責することも必要なんだろうと思います。
なぜなら、そちらの方が潜在意識レベルにアプローチしやすく、こちらのいうことを聞かせやすいからです。
しかし、同時にそのアプローチには負の側面があるのも事実だと言えます。
大人しい気質の人間は、僕のように恐怖がいきすぎる可能性がありますし、気の強い人間であれば、ただひたすらに目上の人に反発する傾向を持つ可能性があるように思います。
アドラー心理学の第一人者である岸見一郎博士もその著書で「問題行動の5段階」というかたちで概ね同様のことを述べています。どちらの状態も望ましい状態ではありません。
なぜなら、本来、物事は倫理的・道徳的な観点を考慮し、論理的に考えて判断するものだからです。
したがって、学校の先生・親を含めた教育者は、心の仕組みについて子供に教育する必要があります。
意図せず植え付けられた潜在意識を改善する方法を知らなければ、幸せに生きていくことが難しくなる場合があるからです。
このブログを読むことで、1人でも心の仕組みを学ぼうと思っていただけたのであれば、今回の目的は達成となります。
いかがだったでしょうか?タイトルをつけるのであれば『叱責という教育的手段の負の側面』といった塩梅になるでしょう。
今現在、バイト先で研修の業務をやっていますが、過去の僕のような傾向を持つ方が数名います。おそらく、心の仕組みに関する教育をあまり受けないままここまできたのでしょう。
そういった方々には業務内容の研修に追加で、心の仕組みはどんなものかということも教えていきます。彼ら・彼女らが、この先良い人生を送ることを願うばかりです。
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さて、現在が2025/3/31です。点線よりも上の内容を書き上げたのが2025/03/28です。何か面白いオチがないかと考えていたら、すっかり締切日になってしまいました。
私は今、就職の関係で、新幹線に乗って大阪へ向かっています。新横浜で大学の友達と合流します。大学生活が3/31までとした場合、大学生活最後に会う友人が彼だということになります。
どうせ最後に誰かに会うのならば、綺麗な女の子がよかったなんて思ったことは内緒です。ここまで書いていて、綺麗な女の子オチは過去にも使っていたことを思い出しました。
今後、文章を書くことになったときに困らないように、話の落とし方の勉強をしておこうと思います。
最後に、ここまでの人生でお世話になった全ての方に感謝を申し上げるとともに、筆を置くことにします。
それでは、また。
東京の景色を横目に新幹線の座席にて
河村東哉