7月22日(金)

原田芳雄さんが亡くなって悲しんでいるところに、こんどは、音楽評論家の中村とうようさん死亡のニュースが伝えられた。21日の午前、自宅のマンションの8階から飛び降り自殺をしたとのことだ。享年79歳だった。


中村とうよう、といっても、今の若い世代の人たちは知らない人も多いかもしれない。だが、僕のような音楽評論家にとって、中村とうようさんは、ある意味で大先生、大先輩といってもいい。今の「ミュージック・マガジン」の前身にあたる「ニュー・ミュージック・マガジン」を1969年に創刊し、まだ市民権を得ていなかった日本のフォークやロックやブルースを、音楽雑誌の枠を超え、マガジン主催のロック・フェスを何度も開催するなど、70年代初期の日本のロックやフォーク、ブルース・シーンの確立に尽力を尽くした、その雑誌の主宰が中村とうようさんだった。



僕も創刊号から「ニュー・ミュージック・マガジン」を買っていて、あの雑誌から、ロバート・ジョンソンやライトニン・ホプキンス等の黒人ブルースや、はっぴいえんどや岡林信康、らの日本語のロック、フラワー・トラべリン・バンドやクリエイションなどの日本のハード・ロックなどを知り、次々に聴いていったものだ。当時のとうようさんは、ボブ・ディランの日本盤の解説を書かれていたり、アメリカン・フォークやブルースに関する文章を多く書かれていて、僕も随分勉強させてもらった。


70年代の「ニュー・ミュージック・マガジン」は小倉エージさんや北中正和さんも編集部員で、どちらかというとシンガー&ソングライター嗜好の記事が多かったが、とうようさんは内田裕也さんとも仲が良く、裕也さんに連載を持たせたり、今野雄二さん(彼もまた自殺した)にボウイやマーク・ボラン、等のグラム・ロックの記事を書かせたりもしていて、当時70年代の「ニュー・ミュージック・マガジン」を読んでいれば、フォークもロックも、ブルースもソウルも、その最先端の詳しい情報が一度に手に入る、貴重な雑誌だった。


そんな中でとうようさんは、「とうようずトーク」という自身のコラムを毎月連載していたが、音楽以外の政治批判的な記事も多く、マガジンは左翼系というイメージを打ち出していた。歯に衣を着せぬ辛辣な批評も多く、自分がカントリー・ロックが嫌いだから、カントリー寄りになったバーズのアルバムに0点を付けたり、親会社が軍需産業と関係があるといって、SONYレコードを批判して、物議を呼んだりもした。


そんな「ニュー・ミュージック・マガジン」に僕自身が原稿を書くようになるのは、1984年末からのことだ。その頃はもう「ミュージック・マガジン」に名前が変わっていて、当時はニュー・ウェーヴ系の音楽をプッシュしていた。その頃はまだメールもなく、原稿を編集部の人に喫茶店で渡したり、神保町の編集部に持っていったりしていたのだが、編集部に行ったときに、ちょうど中村とうようさんがいらっしゃって、「初めまして、最近書かせていただいている鳥井と申します」と、本当に短い挨拶をしただけで、とうようさんも「あ、そうですか、よろしく」と返された、その時だけしか、僕がとうようさんと言葉を交わしたことはなかった。なんか、あんな偉い人に、そう簡単になれなれしくはできないな、という感じだったのだろう。ただ、記憶にあるのは、とうようさんがマガジンの自分の文章やレコード評の中で、「先月号で鳥井くんが書いているように」とかと、僕の名前を3度くらい書いてくださったことだ。殆ど面識もないのに、僕の文章は読んである程度評価してくださっていたようで、特にトーキング・ヘッズのことを書いた文章には、共感の言葉を書いてくださったのが嬉しかった。



90年代後半からとうようさんは編集部にもあまり来られなくなり、経営者として関わられていたようだが、次第にロックには興味を失い、ますます民族音楽の研究家としての立場に身を置かれていた。原稿も「とうようずトーク」以外はあまり書かなくなった。僕も同時に「マガジン」にはあまり原稿を書かなくなった。マガジンがロックから離れ、J-POPやK-POPなどを追っかけるように変わってしまったからだ。2000年以降はとうようさんは会社の経営も別の人に譲られていたようだ。

とうようずトークなどを読んでも、時々、かなりな頓珍漢のことを言っていたり、随分とへそ曲がりで、感情的な人だなあ、と思うこともあって、とうようさんの全てに傾倒していたわけではないが、やはり1969年という道なき時代に、日本でのロックやフォークの地盤を作り、ブルースや黒人音楽の重要性を誰よりも早く日本の評論家やミュージシャンたちに教示したその功績は、決して過小評価されるべきではないと思う。


中村とうようさんは、79歳で生涯独身だった。彼の友人の今野雄二さんや加藤和彦さんも自殺したから、そのあとを追って死んだのかもしれないが、自分のことと照らし合わせてみると、やはり歳をとり、妻も家族もいない一人暮らしの孤独は、自殺という最終手段しか残されていないのかもしれないとも思う。原田芳雄さんは、まだ家族に看取られて死ねたから幸せだったと思う。オレも早く再婚しなければと思う、今日この頃。。。。

中村とうようさんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。



鳥井賀句のブログ

中村とうようさん。享年79歳。