こんにちは。
伊東です。
今日から通常日課です。
あたたたたたたたたぁー
授業中、寝(しん)でませんよね。北斗真剣(神拳)
伝承者のグッチ中納言に
「お前はもう寝でいる」と言われないようにしてください。
一つの行事が終わり、また次の行事や何かに意識を持って取り組むことです。
来週くらいからは修学旅行の実行委員会も立ち上げます。
修学旅行まであと約一ヶ月半。
ところで、
日本中の学校で、「オアシス」運動が行われています。
「オ」は「おはよう」、
「ア」は「ありがとう」、
「シ」は「しつれいします」、
「ス」は「すみません」として
何かとぎすぎすしがちな人間関係を、あいさつによって砂漠の中のオアシスのように潤そうということに狙いがあります。
実際、言葉のまったく分からない外国(シンガポール)に行って、
心ならずも人にぶつかったとき、相手が何か一言いったとしても、
「気をつけろ」と言ったのか、
「すみません」と言ったのか、言葉では分からないかもしれません。
落ち着いていれば表情や語調で見当はつくのだろうが、こういうときには気が動転しやすいので、逆の意味にとりかねないでしょう。
あいさつは大事であり、毎日のようによく言われます。
人間関係の潤滑油ともなる。
「あいさつ」は漢字では、「挨拶」と書きますが、「挨」も「拶」も常用漢字には含まれていないので、普通かなで書かれ、あまりにも日常的な言葉なので、漢字で書けなくても読める人は多いと思います。
しかし、「挨拶」という漢語を構成する「挨」も「拶」も、「押す」とか、「(むりやり)進む」という意味なので、「挨拶」という言葉の意味も、もとは今とは正反対のものでした。
「士庶挨拶す」というと、人々が身分の隔てなく押し合いへし合いすることだし、パレードを見ようと争う群集を考えればよく、とても今のような譲り合いの精神を示す言葉とは言えません。
その意味の変化は、禅僧の間でこの言葉が、仏教の教理をめぐって押し問答する意味に使われたことから始まり、そこから単に「言葉を交わす」という意味に変化して、今日の意味となりました。
江戸時代には、さらに「言葉を親しく交わす仲」という意味にも転じ、「あいさつ切る」といえば絶交のことでした。君たちは修学旅行で(シンガポール)で挨拶できますか?
学校で「あいさつを切られない」ようにもう一度平凡な日常を振り返ってみよう。